「君」とともにこの地球上に生きたいと願う。みんなが願う。「いま幸せだからこそ」…『羽生結弦notte stellata 2025』紀行(7)

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『notte stellata』で示した光
比類なき者、比類なき物――。
羽生結弦と出会うと、いつも考える。
体感は氷点下に近いであろう、この利府の地でも考える。
それが歴史の子、時代の人であるということは何度も書いたが、そうした類まれなる才覚と「厚志」あるいは「高志」は別のように思う。
他人から見て唯一無二でなくとも、他人から見て頂点になくとも、私は唯一無二で私は頂点――これは羽生結弦の単独公演のラストに流れるAdo『私は最強』もそうだし、『notte stellata』の会場を流れるSuperfly『Beautiful』もそうだ。
そうだ、私たち「人」はアナタしか持ってないその弱さが照らすのであり、世界で一つの輝く光でなければならない。
その光量はそれぞれに大きかったり、小さかったりするが、集まればこの社会を照らす。その光を持てない人であっても影として光をより輝かす。
それが私たち人に与えられた「叡智」と呼ばれるものである。
叡智は人以外持たない。持たない生命に対しても叡智は役立てることができる。いろいろ言う人はあるが人は本来、誰であれ可能性ばかりの生き物である。
羽生結弦が『notte stellata』で示した光はそれこそ「月」に匹敵するだろう。
彼は月に憧れ、そして月になった。
私たちもまた月を照らし、月に照らされ、月を見る。羽生結弦と多くの星々もまたそうだ。
すべての人があの日、生きたかった命、生きようとした命、生き抜いた命に対する祈りに集まる――セキスイハイムスーパーアリーナの地はもちろん各劇場や配信、見ることが叶わなくとも心で集うこともできる。
人の叡智は不可能も想いで実現することができる。
それは「私」次第だ。
私は最強なのだから。
人はお前たちのおもちゃじゃない
それ故に「厚志」あるいは「高志」に貴賤や優劣、上下など決して存在しない。
本来の人の世とはそこまで愚かではない。誰に決められるものでもない。そうした決めつけをする彼らを決して許してはならない。それは人という存在やその心に対する冒涜であり人の世に対する罪である。
羽生結弦と誰か、どちらが有名人などと垂れ流す「彼ら」はそうした人たちに対する冒涜であり、ひいては人に対する冒涜である。