みなそれぞれに、星々からのメッセージを持ち帰る。「何者でもない少年」が叶えた夢、あの日の「これからの青年」が誓った夢を…『羽生結弦notte stellata 2025』紀行(8)

目次
私の中に巡るもの
整然とバスに並ぶ人々。
煌々とライトに照らされる人々――『notte stellata』。みなそれぞれに、星々からのメッセージを持ち帰る。
私の中に巡るもの――これは毎年そうなのだが、必ず巡るものはMISIA『希望のうた』である。なんなら書いているいまも頭に流れている。
フィナーレの群舞で流れるこの曲の素晴らしさ。いまさらかもしれないが、それでも素晴らしいものは素晴らしい。
本郷理華、宮原知子、鈴木明子、田中刑事、無良崇人、シェーリーン・ボーン、ビオレッタ・アファナシバ、ジェイソン・ブラウン、ハビエル・フェルナンデス(順不同)、そして羽生結弦が流れる。そう、流れる。心に、流れる。
選曲もまた創作――選ぶという行為もまた創作である。俳句には「選は創作なり」という言葉がある。高濱虚子の言葉だが、これは俳句に限った話ではない。
羽生結弦の選曲とその自己決定にもまた創作がある。
私たちだってそうだ、羽生結弦を選ぶ、これもまた創作である。選択はその人の心のありようが顕れる。選択もまた創作につながる芸術行為である。
希望を失ってはいけない
3.11とすれば多くの歌があるだろう。
それでも羽生結弦は『希望のうた』とした。大きく大きく、人の「希望」をとらえたこの歌を。
東日本大震災だけでない、多くの震災が日本で、世界中で起こり続けている。コロナ禍は収束したが疫禍そのものは後遺症含めていまだ苦しむ人々がいる。戦火に至ってはそれこそ世界中で起こり、それは虐殺と飢餓とを生み続けている。
何もしていなくとも震災は降りかかる。疫禍もそうだ。戦争だって因果関係など知ったことかと攻め込まれれば巻き込まれる。ただ生活しているだけで隣国が攻めてくる。一部の頭のおかしい人が平気でそれを命令する。何もかも奪われる。
それでも――。
それでも、私たちは希望を失ってはいけない。
羽生結弦はあの3.11でそれを悟った。星々に希望を見た。そうして長い長い歳月を経て、この『notte stellata』を生んだ。
多くの支持を集めて3年目――綺麗事だ、偽善だという声もあった。それでも3年目、多くの共にある人々を生んだ。新たに共に歩む人々もいる。こうして人の世は創られる。
これもまた「創作」だ。
本来、芸術なんて特別なものなどいらない、人があることそのものが芸術であり、その先に創作が生まれる。あの日生きたかった人々と生きようと人々、生き抜いた人々もまた遠く遠く、この『notte stellata』を創った。共にある、羽生結弦の希望と共に。
人は美しいのだ
綺麗事――私には何が悪いのかいまもってわからない。
そもそも人は綺麗なものだ。もちろん他者から美しいとされる人もあるだろう、醜いとされる人もあるだろう、そうした優劣でおもちゃのように弄ぶ痴れ者もある。