製薬会社でトップセールスマンになるも「医師になる道をあきらめきれない…」と一念発起!医学部再受験を決意した男性が選んだ「医学部編入」という選択肢

教育ジャーナリストの濱井正吾さんが「学歴ロンダリング」をして、人生が好転した人を取材する連載「濱井正吾 人生逆転の学歴ロンダリング」。
今回は、本郷中学校・高等学校を卒業後、明治薬科大学薬学部を卒業。中外製薬株式会社に2年半勤務したのち、北里大学医学部に学士編入し、その後医師をしながら慶應義塾大学大学院経営管理研究科に進学し、現在は医療法人社団季邦会の理事長を勤め、クリニックを多店舗経営する傍ら、株式会社ENの代表取締役を勤めている鎌形博展さんにお話を伺いました。全2回の第1回。
みんかぶプレミアム連載「濱井正吾 人生逆転の学歴ロンダリング」
目次
病弱でしんどかった幼少時代
鎌形博展さんは1981年、東京都足立区に生まれました。生後間もなく埼玉県草加市に移り、中学生のころには川口市に移ったそうです。
司法書士専門学校の教員や地方公務員をしていた父親と、薬剤師の母親に育てられた鎌形さん。父親は法曹を目指して司法試験を受け続けていたものの、司法試験が難しかった時代もあり、目標を叶えることができなかったといいます。
鎌形さんの小さい頃は、喘息とてんかんを患っていて体が弱かったようで、虎ノ門病院によく通院していました。
「幼少期は自分にとって、結構しんどい時代でした。父は昭和のパワハラ親父でしたし、運動ができない子は過酷ないじめを受けるような時代でしたので、病気のためにマラソン大会のドクターストップがかかるような自分にはただ生きているだけでも大変でした。でも、お調子者を演じて8歳くらいでいじめから脱することができて、それ以来周囲の空気を読みながら、生きてきました」
病弱だったこともあり、運動面ではなかなか思い通りにならなかった鎌形さんでしたが、成績に関しては、通っていた公立小学校では学年で1番良かったそうです。勉強は得意でしたが、それでものちに医者になる兄には敵わなかったと振り返ります。
「兄はすごく頭が良くて、ろくに勉強せずとも中学受験して名門校に入っていました。僕の地元は不良が金属バットで隣の学校に殴り込みに行っているような時代だったので、自分はこの環境では生きていけないと思い、兄のように中学受験をすることに決めました。」
そう思って小学校3年生の2月から塾に通い始めた鎌形さん。その結果、中学受験で本郷中学校・高等学校に合格し、入学しました。
現役の受験は医学部を諦め薬学部に進学
名門校である本郷中学校・高等学校に入学できた鎌形さんはゲームばかりやって勉強に関してはまったくしていなかったようで、入学してから高校2年生くらいまでは、常に下から1割に入る成績でした。
「当時の本郷は今のような進学校という感じではなく、スポーツやデザイン科の強い学校でした。オリンピック選手や有名なアーティストも多数輩出されています。実力試験とか、模試とかは割とできていたのですが、定期試験の成績は全然良くありませんでしたね。」
そんな鎌形さんの意識が変わったのは高校2年生の終わりくらいになってからでした。受験の年を迎えて「仕方ない、やるか」くらいのテンションだったのですが、少し頑張ったら学校でもそこそこ上位の成績に上がったので、多少やる気になったそうです。進路に関しては、最初は歴史が好きだったので父親に歴史をやりたいと言ったものの、「そんなんじゃ食っていけねー!」と怒られて挫折しました。
「父親に怒られてから、将来をどうしようかと考えたとき、機械が好きだったから理工学部に行くか、体が弱くて助けられてきたし医療系の学部に行くかかなと思いました。母親が薬剤師で、兄が医学部だったので医学部や薬学部は身近でした。豊かな家でもなかったので、第一志望は地方国立の医学部かなぁと考えていました。ただ、偏差値50くらいしかなかったので、この成績では医学部は難しかったです」
緊張に負けて現役の年のセンター試験は惨敗し、6割程度の得点にとどまり、私立大学の薬学部をかたっぱしから受験した鎌形さん。星薬科大学、明治薬科大学、東邦大学、昭和薬科大学を受験しますが、なんとか明治薬科大学の薬学部だけ合格することができ、現役で大学に進学することが決まりました。
ストレートで卒業してトップセールスマンになるも…医学部再受験を決意した経緯
ゆりかもめ線で駅員のアルバイトをしながら、明治薬科大学での学生時代を過ごしていた鎌形さん。毎年留年寸前の大学生活だったようですが、なんとかストレートで卒業することができました。
「毎年、親に『今年こそ留年したかも!』って言いつつも、なんとかギリギリ留年を回避していました。なんとかストレートで4年生までいって、国家試験を突破して薬剤師免許を取ることができました。就職活動では薬剤師ではなく、製薬会社を受験していました」
薬剤師の免許を活かして中外製薬株式会社にMRとして内定をもらった鎌形さんは、こちらの企業に入社し、MRとして勤務します。
初年度から新製品の予約受注がNo.1になるなど、トップセールスマンとして活躍していた鎌形さんですが、2年目の終わりには転職をしようと考え始めました。
「当時、初年度から結果が出ていた慢心や、新しいことをやりたいという気持ちがあり、環境を変えるために2年目で早々に社内への異動希望を出していました。その中で、同期入社の2人が病気で亡くなったことが自分にとっては大きな出来事でした。この仕事を一生続けるイメージもなかったですし、自分もいつ死ぬかわからないなと意識させられたのがきっかけで、医者になろうと思ったのです」
かつてセンター試験で失敗し、諦めた医者という道を2年目の終わりに再び強く意識し始めた鎌形さんは、医学部の試験を受ける決断をします。
それからは仕事をしながら中学校の教科書を、昼休みを使ってやり直すようになり、『いける』と判断してその数か月後には辞職し、試験対策に専念する方針を固めました。