何度でも書く、AIPS「100年間のベストアスリート」羽生結弦の選出…偉大なるフェデラー、そしてボルトと共に(3)

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まさに歴史の人
国際スポーツプレス協会(以下、AIPS)の世界137カ国のジャーナリスト913人が選んだ100年間におけるベストアスリート男女20人、ウサイン・ボルトと羽生結弦。
ボルトと羽生結弦が並んでいるというのも凄いが、共に五輪連覇の偉大なアスリート、競技は違えど歴史の人と呼ぶにふさわしい。
繰り返すが私は「天才」という言葉が好きではない。決して使わないということではなく好きではないというだけだ。ただ天才と片付けるのは簡単だが、比較史においてもそれはまったく建設的ではないし、人の努力を天才と安易に言いくるめてしまうことは人に対する冒涜だと思う。
もちろん、世俗的な天才だどうだの軽口は好きにしたらいいと思う。ネットの「ネタ」(私はこの言葉も好きではないが)としても人それぞれだ。「顔天才」という言葉も微笑ましいジョークだろう。
しかし羽生結弦という努力を思えばーーこの、たったひとりの存在すら、その人が歩んできた道がある。それは決して天才と簡単な言葉で片づけられるものではない。なにであれ、誰であれ、そうだ。
才能と努力、それに裏付けられた自信
ボルトもまたそうだ。ボルトのような、ある意味で誰もが走ることのできるという競技、100mを走るというのは健常者(便宜上使う)であれば誰でもできる。私だって100mを走るだけならできる。
しかし100mを9秒58で走れる人は、走ることができた人はいまだに人類史上ボルトしかいない。もちろん才能は重要だ。才能がすべてではないが、多くの偉業は才能あればこそである。
私は才能をまったく否定しない。才能こそ人の可能性だと思っている。ただし才能に天才の意味があるかと言えば「No」だ。
そもそも天才という言葉は中国の儒教にある「天」を指すが、それは時代と共に歪められて日本に伝えられた。その影響もあり明治に「Genius」(守護霊)を「天才」と訳したわけだがどうだろう。
その中国では歪められた儒教によって王が生まれながらにして王であり、王の才を天から授けられたという権威づけのために「天帝」という本来の神に対する呼称が人の王にも使われたわけだが、それがいつのまにか天才という安直な言葉になって日本に定着した。