氷上の小さな命にも、自然と心を向ける…羽生結弦のあの姿が、好きだ。『羽生結弦をめぐるプロポ』「愛」(前)

目次
自分の愛のまま、想うままの行為
氷上の小さな命にも、自然と心を向ける、愛の人。
羽生結弦のあの姿が、好きだ。
遠くから見れば真っ白なリンクも、間近で見ればそうではないことがある。どんなに素晴らしい整氷であっても、生きとし生ける何某かに満ちているこの世にある限り、命の存在がある。
その命を忌々しく思うか、慈しみの眼差しを向けるか。
羽生結弦は後者だ。これまで多くの人の知る通り、小さな虫をそっと助ける、小さな虫の死に祈る姿もあった。誰に見せるものでもなく、それは自分の愛のまま、想うままの行為である。
愛はーーそれが人類愛であろうと、小さな虫に対する慈愛であろうと、愛は人間に欠くことのできない必然であり、本性である。誰にも備わっているはずだ。
心を「向ける」とはカトリックでも使われる。神に心を向けるーー私たち日本人の多くからすれば万物が神、17世紀の哲学者スピノザの言う「神即自然」だろうか。氷上にも神は宿り、小さな命にも神は宿る。愛は宿る。
それでも、こうした「愛」の人であるということは難しい。難しいからこそ、価値が在る。
たいそうでない愛もまた素晴らしい
もちろん、そうした愛の人は多くいる。本来、人は愛が必然なのだから。
「愛(AMOUR)ーーこの言葉は一つの情念と同時に、一つの感情を示している。愛の始まりは、そして愛を感じるたびに、それはいつも、一種の歓喜である。しかも一人の人間が今いることと、あるいはその追憶と深くかかわっている歓喜である」※1
アランは「愛」についてこう述べる。その歓喜に不安が訪れることがあることも。この章の最後にある「愛自身の魔法によって不死のものにする」はアランにしては少し難しい結論で、この言葉の難しさ、アランをもってしても明確にできないのかと思わされてしまう。
それでも、私は愛の人が真の人間に思う。たいそうな愛でなくてもいい。たいそうな愛が素晴らしいのは当然だが、たいそうでない愛もまた素晴らしい。
愛は徳であり美だ。自己を愛する先に他者を想う、他者を想う先に自己を想う、そうして愛は巡る。
愛は創造だ。羽生結弦をめぐる私たちもまた愛であり、創造であり、実際にそれは、羽生結弦という存在として成立している。
それにしてもこの言葉ーー「愛」とはなんと難しい言葉だろう。慈愛、博愛、友愛もあれば愛情、愛欲もある。自己愛、隣人愛もそうだ。
ブッダもキリストも孔子もそれぞれに「愛」を語った。アリストテレスやプラトン、ライプニッツ、カント、アランなど哲学者のほとんども「愛」を定義しようとした。