氷上の小さな命にも、自然と心を向ける…羽生結弦のあの姿が、好きだ。『羽生結弦をめぐるプロポ』「愛」(後)

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社会性もまた愛
命の問題である。
命とは愛である。これもまた必然である。
犬ということなら思い出すのは羽生結弦のそう、もう2年近く前になるだろうか、羽生結弦と災害救助犬のウルフリーダ号、そしてタック号のことである。
もう2年近く前になるか、2023年12月の日本テレビ系「news every.」『羽生結弦 伝えたい思い』。羽生結弦は東日本大震災をきっかけに設立された災害救助の専門部隊、警視庁特殊救助隊を訪ねた。
当時、私はこう書いた。
〈羽生結弦が『羽生結弦 伝えたい思い』を続けることはそうした利他の心、損得でない、それこそ「伝えたい思い」という「姿勢」(身体的な意味でなく、心の「姿勢」でもある)に依るものだと思う〉
〈こうした行為に冷笑や心ない揶揄を向ける人はあるが、本来なら羽生結弦という存在は多くの厚志をする必要はない、すでに世界的なアスリートであり、アーティストであり、その地位も実績も不動の人だ。しかし彼はそれこそ自分がどうなるかもわからない時代から厚志を続けている。何を言われても、自分がどうなろうとも、それはいまも変わらない。それは『羽生結弦 伝えたい思い』にも顕れている〉
羽生結弦の社会性の発露ということだが、社会性もまた愛だ。利他という愛だ。命のことである。
「かわいいね、いい子だね」
タック号と羽生結弦のふれあい、羽生結弦を見事に探し出すウルフリーダ号の活躍、とくにタック号の甘えぶりは愛らしく、あたたかいものだった。もちろん犬に限らずしつけは大事だ。ときとして厳しくすることもある。救助犬ならなおさらそうだろう。
生者だけでなく
それでも、やはり愛なのだと思う。人であれ、犬であれ虫であれ、愛なのだと思う。
「愛」と反対の言葉は「憎」とされるが、私は「愛」と真逆の残酷な行為は「無関心」だと思っている。
実のところ無関心こそが人の悲しい結果を生む。犬にとって無関心ほど残酷な行為はない。しつけとしての無視とは違う。無関心には愛がない。愛がないことは命を蔑ろにする行為に他ならない。ましてそれを公然と、テレビの生放送で笑いにして放言するなど――生命倫理の欠如した表現者の創作に、何の見どころがあろうか。
誰がどうでなく、こうした人はいる。アリストテレスの言う「善き者の愛」を失った人はいる。
「大丈夫だよという声かけが、すごく安心感につながったなと思っています」
先の放送で羽生結弦が水害救助の訓練で助けられたあとの言葉だが「大丈夫だよ」は生者だけでなく死者にも届く言葉だ。
ここでもう一度、先のアランの言葉を引こう。
「愛(AMOUR)ーーこの言葉は一つの情念と同時に、一つの感情を示している。愛の始まりは、そして愛を感じるたびに、それはいつも、一種の歓喜である。しかも一人の人間が今いることと、あるいはその追憶と深くかかわっている歓喜である」※1
そうだ、「一人の人間が今いることと、あるいはその追憶と深くかかわっている歓喜」、これだ。
今いることと、その追憶という、生者と死者。