狂騒の80年代、ジュライホテルを捨て台北大旅社の四畳半へ…フアランポーンという哀しい女たちの終着駅で、100バーツの愛を拒んだ夜
1980年代から90年代にかけて、アジアの歓楽街は熱気と混沌、そして甘美な腐臭に満ちていた。高度経済成長のあぶく銭を握りしめ、男たちは夜の底へと沈んでいった。これは、かつて暗黒街に沈み、熱気と混沌に溺れながら「愛」を探し求めた男の回想録である。
「ブラックアジア」「ダークネス」でカルト的な人気を博す作家・鈴木傾城氏による連載「アジアの暗黒街で愛を探した男」第2回――。

フアランポーン駅(2023年撮影)
目次
3か月で60%の上昇を見せた「大林組株」
日本のバブルは1986年から始まっている。私が初めてタイを旅して数か月そこで過ごしている間、急激に株価が上がりだしていた。最初に吹き上げたのは3月だった。
まさにそのとき、私はいくつかの株を保有していた。旅に出る前に仕込んでいたのはソニーと大林組の株だった。ソニーは製品が好きだという理由だけで買って、大林組は父親が上がると言っていたので、よくわからないままそれを買っていた。
チェルノブイリで原発が爆発した報道があってしばらくして私は日本に戻ったのだが、それが4月終わりくらいなので、株は4か月ほど保有していたことになる。
蓋を空けてみると、私が期待を込めて買っていたソニーは10%ほど下がっていて、父親の勧めた大林組は本当に60%ほど上がっていた。たった3か月で60%の上昇は尋常ではない。使った旅費も戻ってきた上におつりまで来た。
株は高校生の頃から興味を持ち、実際に買い出したのは18歳からだが、こんな短期で60%も取れたのは初めてだった。
そのとき、私はふと「使った旅費以上に儲かったということは、もう一回行けるじゃないか」と気づいてしまった。もうすっかりタイという国の虜になっていて、あの刺激をもっと感じたいと切望していた。
ただ、数か月に及ぶような旅は「20歳になった一度だけの思い出」のつもりだったので、すぐタイにとんぼ返りするようなことは想定していなかった。1か月ほど私は日本で悩んで過ごしていたが、やがて決意した。もう一度タイに行く……。
「だけど、旅は本当の本当にこれで最後にしよう。旅人になるつもりなんかないし、これで終わりだ」と私は自分に言い聞かせた。
俺は株で博打に出るしかなかった
しかし、戻る先は歓楽街だ。だとしたら、最初の旅よりもカネがいる。あそこはカネが物を言う世界であり、カネがなければ入口にも立てない場所だ。とにかくカネを作らなければ話にならない。
とは言っても、20歳そこそこの仕事もしていないような人間が、おいそれとカネが作れるはずもない。それでも何とかカネを作るには、詐欺か、強盗か、それとも株でいちかばちかの勝負をするくらいの選択肢しか思い浮かばない。
「詐欺も強盗もしたくない。株でバクチするしかない」
それが私の結論だった。そこで必要最小限の旅費は取っておき、今度はありったけのカネを鹿島建設に注ぎ込んで勝負することに決めた。1か月くらい様子を見て、上がればすぐに売って旅費に付け足すつもりだった。
鹿島建設の財務や状況は何も知らないが、たまたま本屋で読んだ週刊誌に「上がる」みたいな話が書いていたのでそれで決めた。大林組で建設株がすっかり気に入った。ところが、1か月ほど様子を見ても株価はほとんど反応しない。上がる気配もない。
タイに行きたくて気持ちが急いていた。イライラしながら考えた結果、期待している鹿島建設の株はそのままにして、とにかくタイに行ってしまおうと決めた。すぐにでもタイに戻りたいという衝動がどうしても抑えられなかった。
それで私は、たいしてカネを持たない状況で、「これで最後になるはずの旅」に出たのだった。
日本はそのとき、驚異のバブル相場に乗っていた
皮肉なことに、時代は私が予期しないほど幸運な方向に走っていた。数か月後に日本に戻ってきたとき、この鹿島建設もまた大きな利益を私にもたらしていた。すでにバブルの咆哮が鳴っていたのだ。1986年3月から吹き上げた株式市場は、その後の4年にも及ぶ驚異的な上昇相場のプロローグでしかなかった。
そんなことが起こっていたとは知る由もなかったが、とにかく何を買っても上がる相場に突入していた。以後、私は株の博打であぶく銭を膨らませながら、タイに沈没するライフスタイルに入ることになった――。