「もう、うんざりだ…」パッポンの安宿で震えた株価暴落の朝。「信用取引」という欲望がバブルの夢を切り裂き、3万8915円の頂点は音を立てながら崩れ去っていった
1980年代から90年代にかけて、アジアの歓楽街は熱気と混沌、そして甘美な腐臭に満ちていた。高度経済成長のあぶく銭を握りしめ、男たちは夜の底へと沈んでいった。これは、かつて暗黒街に沈み、熱気と混沌に溺れながら「愛」を探し求めた男の回想録である。
「ブラックアジア」「ダークネス」でカルト的な人気を博す作家・鈴木傾城氏による連載「アジアの暗黒街で愛を探した男」第5回――。

<前回までのあらすじ>
カウボーイ姿で踊る嬢・プラーに誘われ、足を踏み入れたのは悪臭漂うスラムの四畳一間だった。パッポンの華やかさの裏にある「貧困」を悟った筆者は、帰国後も日本の繁栄に馴染めず、再びタイへ向かう。株の泡銭を頼りに、ドラッグと性愛が渦巻く「ろくでなし」の泥沼へ、自ら深く沈み込んでいった。その先には――。
目次
パッポンに沈みたくて「信用取引」に手を出した
1987年になると、私は「株式市場はとにかく上がるものだ」という感覚を強めて、とにかくひたすら売っては買っての回転売買をおこなった。
当時は池袋の岡三證券を使っていたのだが、ここの担当からしょっちゅう連絡がきて「あれが上がる、これが上がる」と勧めてくるので、面白いのがあったらすぐに銘柄を乗り換えた。それがまた、どれも狙ったように上げていく。
薄々と気づいてはいたが、別にこれは岡三證券の営業マンが優秀だったわけでも何でもなく、単にバブル相場で「何を買っても上がる」状況になっていたのだ。うさん臭いとは思ったが、資産が増えるのは悪い気はしなかった。
あるとき「信用取引でやったら、もっと儲かる」と言われた。それは手を出したらヤバい領域であるのは知っていたが、さんざん悩んだあとにやってみることにした。
恐る恐る資産の半分で玉(ぎょく)を建てたら、うまい具合にどんどん上がってくれた。あっという間に百数万円に膨れ上がったので、それを手仕舞いして現金を手に入れた私は有頂天になった。
相場が私に襲いかかろうとしていた
それで、さらに別の銘柄で玉(ぎょく)を建てて、しばらく建玉を放置したままタイに向かってパッポンに入り浸った。資産は相変わらず株にフルインベストしていたので、一回の旅で使う金額は30〜40万円と自分で制限をしていた。
付き合うパッポンの女性たちが貧しい生活をしていたのだから、自分だけ良いホテルに泊まって贅沢したいという気持ちにはとてもなれず、泊まるところは相変わらず場末の安宿だった。
旅のレベルを上げようとはまったく思わなかった。というよりも、信用取引で失敗したら私もまた一文無しになる。実際、信用ですべてを吹き飛ばした人の話は山ほど聞いた。財産も、家もすべて失って、一家離散した人はいくらでもいる。
自分も足を踏み外したら一瞬で終わりだ。自分の最期が今日なのか、明日なのか、来年なのかわからないが、いつかやられるかもしれないという切迫感がずっと心の片隅にあった。そのため、精神的にはいつもギリギリの状態だった。
タイのクロントイスラムに出入りして、どんどん自分の生活をダウングレードしていったのは、「すべて失っても貧困で暮らせるように」と自分を慣らしていこうと無意識に考えていたからなのかもしれない。
精神的ダメージでしばらく立ち直れなかった
その悪い予感はその年の10月あたりにやってきた――。