そして人間は「測りすぎ」の病にかかった……あらゆる物事が数値化される社会で必要なこととは

「売上前年度比〇%」「〇%の生産性改善」……。私たちの生活には、常に“数字”がまとわりついている。人気ポッドキャスト番組「コテンラジオ」を手掛ける株式会社COTENにて歴史調査を担当する品川皓亮氏は、「人間はいつのまにか数字によって心と体を支配されるようになっていった」と警鐘を鳴らす。適正な数字との付き合い方を品川氏が考える。全3回中の2回目。
※本書は品川皓亮著『資本主義と、生きていく。 歴史と思想で解き明かす「構造的しんどさ」の正体』(大和書房)から抜粋、再構成したものです。
第1回:人はいつから成長に捉われるようになったのか?いまなお私たちの内面に潜むダーウィニズム
第3回:お金に関する不安は「貯めるだけ」では解決しない……私たちは罪悪感や劣等感から逃れられない
目次
「科学的に正しい21ポンド」とは
自然科学、人間社会と来て、次に数字が支配の手を伸ばしたのは産業の分野でした。時代が進むと、数字を武器として工場での生産性を上げることに心血を注ぐ人物が出てきます。場所はヨーロッパではなく、20世紀前半のアメリカでした。
フレデリック・テイラー(1856年ー1915年)は、それまで感覚的に行われていた工場での作業を徹底的に分析し、「科学的管理法」と呼ばれるマネジメント方法を打ち立てたことで有名です。テイラーにとって、工場労働者は「すきあらば働いているふりをする人間」の集まりでした。
「有能な労働者は誰でも……、いかにゆっくり働き、それでいていいペースで仕事をしていると雇用主を納得させることができるか、かなりの時間をかけて研究している」という彼のシニカルな言葉が残っています。
労働者をいかに効率よく働かせ、より短い時間でより多い生産をするか。それが、彼が生涯を捧げたテーマでした。
そんな彼は、ベスレヘム・スチールの工場で衝撃的な実験をはじめます。これは「シャベルすくい作業の研究」として有名です。彼は工場における「材料をシャベルですくって運ぶ」という肉体作業を徹底的に科学しました。「シャベルすくいに科学なんてあるの?」と思うかもしれません。
しかし、テイラーの方法は大きな成果を生みました。彼は数週間かけて、名人級の作業員に5ポンド、10ポンド、20ポンド、40ポンド……と、さまざまな重さの材料をシャベルですくわせました。そしてその様子を、朝から晩までストップウォッチを片手に観察し続けました。
結果は驚くべきものでした。1回にすくう量を21ポンド(約9.5kg)にすると、1日の総量が最大になるという事実が判明したのです。24ポンドでも18ポンドでもダメ。ぴったり21ポンドが「科学的に正しい」重さだったのです。
そこでテイラーは、工場に8~10種類のシャベルを用意しました。重い鉄鉱石には小さなシャベル、軽い灰には大きなシャベル。どんな材料でも、必ず21ポンドずつすくえるようにしたのです。
人々は数字を追い求めるようになった
テイラーの手法の威力は凄まじいものでした。「自動車王」ヘンリー・フォードがテイラーを雇いT型フォードの生産に応用すると、T型フォード一台にかかる製造時間は12時間から93分に短縮。価格は825ドルから575ドルに下がりました。
テイラーの科学的管理法の具体例を知ると、どれほど単純な作業であってもそれを数値化してデータを収集し、分析することの重要性を思い知らされます。彼は『科学的管理法』(1911年)という著作の中で「望める限りの最高の豊かさを手にするためには、誰もがどこまでも効率を追求し、日々の出来高を最大限に増やすほかにはない」と断言します。
この発想、どこかで聞いたことがありませんか? 「今月の目標は前月比110%」「1日の商談数は4件以上」、そのために「1時間のテレアポ数は最低20件」「1回の商談時間は45分以内」、しかし「残業時間は月10時間以内」……。
私たちが働く中で向き合わざるをえないあらゆる数字管理は、テイラーの科学的管理法の直系の子孫だともいえるのです。
数字へのプレッシャーが不正を誘発することも
最後に、ジェリー・Z・ミュラー(1954年ー)という現代の歴史学者が『測りすぎ──なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?』(2019年)という著作の中で行った興味深い指摘も紹介しておきたいと思います。
ミュラーはこの本の中で、経験に基づく判断を「数値」に全面的に置き換えることの危険性を訴えます。個人や組織の成果を数字で測定することは有益であるものの、それに執着すると弊害が生じるというのです。
この本では、測定された数値を人間への報酬や罰と結びつけることで、意図しなかった有害な帰結が生じる例が豊富に紹介されています。ミュラーはこのような傾向を「測定執着」という言葉で表現しました。測定執着とは「測りすぎ」によって弊害が出ている状態のことです。
具体例をいくつかご紹介しましょう。
たとえば教育の分野において、テストの得点と連動した教師の報奨制度の導入により、教育の質が低下した事例。医療の現場において、手術の成功数と報酬を連動させたことで、手術が過剰に実施されて結果的に患者の福祉に繋がらなかった事例。ビジネスにおいて長期的な目標が軽視され、四半期の株価目標を達成するために粉飾が横行した事例。
私たちにとっても、「いつかどこかで見た景色」と思えるケースも多いのではないでしょうか。
測定執着がはびこる社会においては、測定しやすいものばかりが重視され、本当に重要なものが軽視されます。さらに深刻なのは、数字を改善することが自己目的化することです。
病院が「手術成功率」を上げるため、リスクの高い患者を避ける。学校が「進学率」を上げるため、生徒の適性を無視する。数字へのプレッシャーは、時に不正すら誘発します。
資本主義社会にはびこる「測りすぎ」
人類と数字との関係の歴史を念頭におくと、ミュラーが指摘する測定執着は、資本主義社会の全体にあてはまる病のようにも思えてきます。
〈時間〉も〈成長〉も、それ自体として私たち人間を脅かす存在ではありません。しかし、数字という恐ろしい「相棒」を伴って人間に襲いかかると、私たちはいとも簡単にこの病にかかってしまうのです。
私たち人間に様々な恩恵をもたらしてきた数字が、反面では「測りすぎ」という病を生み出した過程を描写しました。数字は私たちの思考と行動を縛り付け、支配する力をもっているのです。
ミュラーは人を評価する場面を念頭に置いて「測りすぎ」の危険性を指摘しましたが、実はさらに深刻なことがあります。それは、多くの現代人は「もっと測定しよう」とか「もっと数字を利用しよう」という意思決定などまったくしていないのに、この構造の一部に取り込まれてしまっているという点です。
私たちは普通に生活し普通に仕事をしているだけなのに、自らの意志にかかわらず数字による支配を「受ける」立場に立たされてしまっています。したがって、私たちにとってより深刻な問題は、「測りすぎ」よりも「測られすぎ」という点にあるといえます。
自分の意志とはまったく無関係に、あらゆることが数値化される世界。しかし、そんな世界で暮らさざるをえない私たちも、本当は「私のすべてを数字で評価するな!」と大声で叫びたいのではないでしょうか。
この「すべてを数字で測ろうとする世界」と「それに抵抗したい心」との葛藤によって引き裂かれた状態が、数字という追手の正体なのでしょう。ミュラーは先ほど紹介した著作の中で、測定執着に陥りがちな人類に対する処方箋をいくつも紹介しています。
私なりに解釈すると、それらの処方箋は「『測定しない勇気』も選択肢に入れよ」という言葉に集約されます。
これは、先ほど指摘した「測られすぎ」の問題にも敷衍できる考え方です。自分の意志とは無関係に「測られている」という事実自体は変えられなかったとしても、「それに心を奪われない」「それよりも大切なものを大切にする」──そういった勇気が、私たちに求められているといえるでしょう。
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