元番長・元暴走族の「悪ガキ」を積極採用の玉子屋…なぜ初代から2代目社長への引継ぎが超スムーズだったか
東京・大田区で弁当屋を営む玉子屋は元番長や元暴走族の「悪ガキ」を積極採用することでも知られる。1970年代に創業し、1日50食ほどの弁当を提供してきた街の小さな弁当屋は、1日7万食・年商90億円を売り上げるまでに成長した。同社社長の菅原勇一郎氏は、業績を伸ばした背景には「スムーズな事業承継」があったと話す。日本中で大きな問題となっている事業承継のあるべき姿について、菅原氏が語る――。全4回中の1回目。
※本稿は、菅原勇一郎『東京大田区・弁当屋のすごい経営』(扶桑社新書)の一部を再編集したもので、数字などは2018年当時のものです。
父から弁当屋を引き継ぎ、年商90億円へ
私は東京都の大田区で玉子屋という宅配弁当の会社を経営しています。都心で働くビジネスマンの方なら、ヒヨコが描かれた白いワンボックスカー、玉子屋の配達車を見たことがあるかもしれませんが、大多数の方はご存知ないでしょう。
お弁当は、日替わり弁当1種類のみ、450円のお弁当を毎日6〜7万食、製造・配達しています。6〜7万といえば、小規模な地方都市の人口に当たります。
玉子屋は私の父が興した会社で、そもそも事業を継ぐつもりがなかった私ですが、1997年、27歳のときに玉子屋に入社しました。当時の事業規模は1日2万食を超えるくらい。そこから毎年順調に配達数を伸ばしていき、10年後の2007年には6万食を突破しました。現在は日替わり弁当で年商約70億円、玉子屋グループ全体で年商は90億円です。
私が人前でお話させていただくとき、必ず聞かれることがあります。その一つが「どのようにして、スムーズに事業承継をしたのですか?」です。
中小企業の廃業が増えているといいます。玉子屋も中小企業ですから、中小企業を取り巻く経営環境が厳しくなっている実感はあります。しかし中小企業の経営環境が厳しくない時代などなかったわけで、それぞれの時代の荒波を乗り越えて、中小企業は日本の経済を下支えしてきました。
経営環境の変化についていけなくて業績が振るわずに会社を畳むことはいつの時代もあることですが、昨今廃業した会社の約半分は経営的には黒字だそうです。黒字の会社がなぜ廃業するのか。最大の理由は後継者が見つからないからです。
経済産業省の分析によれば、現状、日本の中小企業の3分の1に当たる127万社で後継者がまだ見つかっていないといいます。この問題を放置して127万社が廃業すれば、実に650万人の雇用と22兆円のGDPが失われることになるそうです。
オーナー社長が圧倒的に多い中小企業にとって、会社の経営を後継者に引き継ぐ「事業承継」は大きな課題です。
近頃は従業員をトップに昇格させるケースや外部から後継者を引っ張ってくるケース、M&Aによる事業承継などが増えてきていますが、いまだ主流は親族による承継です。
かくいう私も玉子屋を、父親で現会長の菅原勇継から引き継ぎました。「親子なんだから親の事業を子どもが受け継ぐのは当然」と思われるかもしれませんが、中小企業の事業承継というのはそんなに簡単なものではありません。
私は玉子屋に入社する以前、銀行に勤めていたことがあります。中小企業の経営者とのお付き合いがありましたから、経営のバトンを引き渡す苦労も目の当たりにしてきました。なおかつ自分自身、家業を引き継いだ経験から言えば、親子の間柄が逆に作用することが少なくないのです。
銀行員の目線で言えば、事業承継するよりも廃業したほうがいい場合もあります。事業承継の方向性が定まらないまま、業績の上がらない事業をずるずると続けていたら、廃業すら困難になりかねません。
自分の意志で廃業するのならイチから再出発できます。しかし、倒産となると取引先や従業員などに多大な迷惑をかけることになりますし、負債の返済という足枷がついて回ります。マイナスからの再出発だから再起の道も険しいんです。
後継者を見つけたら一日も早く承継を
最近では、中小企業の事業承継は国家的な問題として認識されており、自治体が後継者育成事業に力を入れています。自治体が「事業引継ぎ支援センター」を設置し、地域の商工会議所が運営したり、民間の中小企業M&A支援業者も増えてきました。
同業他社に丸ごと会社を買収してもらう、不採算事業を整理して収益部門を子会社化するなど、事業の存続にも社員の生活にも支障の少ない形での継続が見込めることもあります。その場合、オーナー社長なら会社を売却した収益を老後資金に当てることもできるでしょう。自力で後継者が見つけられない場合、こうしたサポートやサービスを利用するのも手だと思います。
外部から後継者を見つけてくるのもいい。お金はかかりますが、「プロ経営者」と呼ばれる経験豊富な専門家を招く手もあるでしょう。
身内から選ぶにしても、長子、長男にこだわることはない。資質があるなら娘に継がせてもいいし、娘婿なら世界には35億人の候補がいるわけです。息子より優秀な後継者が見つかる確率は高い。
そして「こいつに継がせたい」と心に決めた後継者がいるのなら、1日でも早く引き継がせたほうがいいというのが私の持論です。
後継者と目した相手に経験を積ませて、自分が納得できるレベルまで育ててから、タイミングを見て会社を継がせる。それがセーフティな事業承継だと思っている経営者は少なくないでしょう。
しかし5年経っても、10年経っても納得できるレベルに育たないことだってあり得ます。その間にトップの経営感覚やエネルギー、人脈などがすっかり衰えてしまって、やむなく引き継ぎをしているようでは失敗しかねない。
「継がせる」と決めたら、経験が浅くても、企業家として未熟でも、社長なり役員なり、それなりの立場に就かせる。未熟だから失敗もするでしょう。しかし、先代が元気なうちは十分にフォローができます。
まだまだ人脈はあるし、お客様だって持っている。何よりパワーがあります。新しいトップに対する社内の不平不満を抑えることができるし、二代目を鍛える余力もある。
社長が元気なうちにバトンタッチして後継者と一緒に得意先や取引先を回って「まだ出来が悪いけれどよろしくお願いします」と顔をつないでおけば、生きた人脈がしっかり引き継げる。
最初は従業員から文句が出るかもしれません。しかし、「俺が決めたことだから。新しい社長を盛り上げてやってくれ」と言い聞かせれば、従業員も早めに気持ちの切り替えができる。トップが元気なうちに事業承継したほうが、新しい体制への移行はスムーズに運ぶと思います。
社長に求められるのは未来を見据えた判断
我が身を振り返れば、玉子屋の事業承継は比較的スムーズにいったと思います。玉子屋を興した私の父親であり現会長の菅原勇継は1日50食の「弁当屋」から始めて、1日1万食を超える弁当を製造販売する「中小企業」に玉子屋を育て上げました。
450円の日替わり弁当に特化して食数を伸ばしていく玉子屋のビジネスモデルの原型は、すべて会長が考え出したものです。その会長から玉子屋の経営を引き継いで私が社長になったのは2004年のこと。
入社してから社長として会社を引き継ぐまでに7年を要しましたが、常務で入社したときから会長に「すべて任せる」と言われていました。
だから社長の肩書きになったのは2004年のことですが、実質的には1997年に玉子屋の事業承継はほとんど完了していたことになります。
当時、会長は57歳。まだまだ元気でしたし、経営感覚も鋭敏でした。バブル崩壊後の不況とデフレが進行する中で弁当ブームは続いていて、会社の業績も順調に伸びていた。表向き、トップを退く理由はなかったと思います。
しかし、会長はすぐに私に会社を任せるつもりでいた。私が玉子屋に入ることが決まった時点で、幹部社員に「今度から息子に一任する」と話していたそうです。
小さな「弁当屋」に自分を慕ってくれる仲間が集まってきて「小企業」になり、いつしか「中小企業」になって従業員の数も増えた。これからまだまだ食数は伸びそうだし、従業員もさらに増えるかもしれない。
「家業」からスタートした玉子屋が「企業」になり、「企業」としても一皮剝けなければいけない時期にきていることを、会長は感じていたそうです。一方で、コーポレートガバナンス(企業統治)やコンプライアンス(法令遵守)、CSR(企業の社会的責任)といった言葉が注目されて、企業経営のあり方が一層厳しく問われる時代がやってくることも十二分に理解していた。