蓮舫バッシングは女性差別か、小池百合子は名誉男性か…「自分を苦しめるものはすべてミソジニー」と思う女ほど、簡単に他の女にミソジニーをぶつける(三浦瑠麗)
7月7日投開票の都知事選は現職小池百合子氏の圧勝で終わった。その選挙期間中や選挙後では、蓮舫氏を巡る見ていられないようなバッシングや、小池氏を「名誉男性だ」などと批判する声があがっていた。改めて、国際政治学者の三浦瑠麗氏が都知事選を振り返る。全2回の第2回目ーー。
編集部にお題をいただいたので、巷間広まった「蓮舫バッシングは女性差別なのか」、「小池百合子は名誉男性なのか」という問いについて暫し考えてみたい。まず、冒頭問う。なぜ、筆者はこれらの問いに答えようとするのか。論争の審判役を自分なら果たせるとでも思うのだろうか。そうだ、そうだ!と思った読者は、胸に手を当てて考えていただきたい。では、なぜ自身がこの問いに審判を下せると思うのかを。
「蓮舫バッシングは女性差別だ」「小池百合子は名誉男性だ」と思う人が存在し、それを否定する人も存在するという事実がある。賛否どちらかの立場に立ってみせても相手の考えを変えることはできず、論争は解決しない。そこで、筆者の意見は終わりに述べることにして、まずは視角を変えて問題を捉えてみたい。
目次
昔は「アイデンティティ」より「社会階級」が問題にされた
現代の先進国では「アイデンティティ・ポリティクス」(属性に基づくアイデンティティを土台とした政治運動)が台頭していると言われる。「属性に基づくアイデンティティ」の箇所に人種、民族、性別などを入れ込むことで、イメージが掴めるだろう。
アイデンティティ・ポリティクスは、資本主義と民主主義の発展の当然の帰結として生じたものである。両者の発展によって、「社会階級」の問題がアイデンティティに塗り替えられたからだ。
昔からアイデンティティに基づく政治運動は存在していた。女性は参政権獲得のために運動したし、アメリカの黒人は公民権運動を展開した。カタルーニャとバスク地方はいまもスペインから独立を目指している。ヒトラーはユダヤ人を迫害してその絶滅を計画し、ユダヤ人はそのアイデンティティに基づいて「約束の地」に建国した。現在、イスラエルはガザへの空爆を繰り返し、ハマスはイスラエルの一般市民をターゲットにテロをしている。ジェンダー、人種、エスニシティ、宗教、地域アイデンティティ。こう見ると、世界は昔からアイデンティティに基づく政治運動と暴力に満ち溢れているかに見える。
しかしその頃、今のように「アイデンティティ・ポリティクス」という表現が突出することはなかった。一つには、そんな生ぬるい表現を用いるには深刻すぎる対立だったというのもある。アウシュヴィッツに囚われの身のユダヤ人にとって「ポリティクス」が成立する余地はない。それと、もう一つには、アイデンティティの分断が「社会階級」と結び合わさっていたからである。アイデンティティに関わる多くの問題は「社会階級」の問題として表現されていた。両者の結びつきが解けた理由は、資本主義と民主主義が発展したため。有体に言えば、多くの人が市民権を得、教育や自由競争の機会が与えられ、豊かになり、世俗的に交じり合って暮らすことで、社会階級が固定化されなくなり、また必ずしもアイデンティティによって定義されなくなったからだ。
「わが正義に跪け」
資本主義と手を取り合いつつ民主主義が成熟していくと、民主主義のタスクの中核は国民に富をどう「分配」するかという問題になる。成長は資本主義の担当。分配は民主主義の担当である。この分配に関して亀裂が生じたのが、アメリカをはじめ移民の存在感が大きい国だった。いったんは大戦争を経てナショナリズムが強化され、国民統合が高まったが、同質的でない国において、「われわれ」と「ヤツら」を分断する感情は厳然と存在する。国内の分断が適切な分配政策の選択を妨げる中、グローバル化による成長で格差は広がった。黒人や女性の中にも億万長者が生まれ、能力の高い移民がシリコンバレーで巨万の富を手にした。マイノリティも一様ではない。