エコノミスト「賃上げはまだ続く」“昇給”と“賃上げ”の差を理解しているか

「賃上げ」の報道が続く一方で、「生活が楽になった」との実感は持てず、将来に不安を抱いてしまう人も多い。ただし、エコノミストの藤代宏一氏は、「賃上げのトレンドは今後も続く」と話す。そのように語る背景と、混同しがちな「昇給」と「賃上げ」の差について、藤代氏が解説する。
※本稿は藤代宏一著「株高不況」(青春新書)から抜粋、再構成したものです。
第2回:生活実感はさらに悪化…そんな中でも「インフレは投資家には吉報」と言える理由
目次
「生活が上向いた」と実感できない理由
日本では約30年ぶりの賃上げ率にもかかわらず、消費者の声として賃金上昇は十分でないという指摘が多いのも事実です。ここ数年の賃上げが若い世代に集中しているという事情を考慮する必要はありますが、賃上げによって生活が豊かになった、という実感に乏しい人は多いと思います。
それは賃金上昇が物価上昇率に追いついていないからに他なりません。名目賃金上昇率から物価上昇率を差し引いた実質賃金は、2022年以降、大半の期間がマイナス圏での推移となっています。食料のみならず、幅広い品目の価格上昇が家計を圧迫していることは説明するまでもないでしょう。
もう一つの重要な論点として、賃金上昇の持続性への懸念があるのではないでしょうか。
名目賃金が上がったとはいえ、平成年間の大半の期間において賃金が上がらなかった後、たった2〜3年しか賃上げを経験していません。現在の賃金上昇を一時的と思っている人が多く、将来不安の払拭には至っていない現状があると思います。
たとえば、消費動向調査では「あなたの世帯の収入の増え方は、今後半年間に今よりも大きくなると思いますか、小さくなると思いますか」という質問から得られた「収入の増え方」という項目は、コロナ以前の2019年平均よりも低い水準にあります。長らく、はっきりとした賃上げがなかった日本では、賃金は上がらないという常識のようなものがあります。賃金上昇の持続性に懐疑的な見方をする人が多いのは当然でしょう。
以下では賃金上昇の持続性について解説していきますが、その前に、そもそも「賃上げ」の具体的に意味するところが何であるかを押さえておくことがきわめて重要です。
「定期昇給」では「賃上げ」ではない
ここで賃上げを巡る報道を見てみましょう。あるマスコミ報道を一部加工したものです。
「労働組合の全国組織である連合が公表した2025年春闘の平均賃上げ率は5.4%、ベースアップ(ベア)は3.7%と34年ぶりの高水準となっている」
この報道に接すると、企業が5.4%分の人件費を増加させると思う方が多いと思います(話を単純化するために全社員が労働組合に加入しているとします)。ただ、企業の人件費増加額は3.7%に過ぎません。両者の差分は、いわゆる「定期昇給分」で、これはマクロ的な文脈でいう賃上げではありません。
伝統的な日本企業では、経験値や勤続年数に応じた「定期昇給」があるため、「賃金は上がってきた」という認識がありますが(キャリアの大半を賃上げ率マイナスかゼロで過ごしてきた現在の40~50代もいますが)、それはあくまで昇給であり、マクロ的な文脈における賃上げではありません。
昇給は労働者一人一人にとって賃金の増加となりますが、会社全体で見た場合
は、(小学校内の平均年齢が毎年一定であるのと同じように)毎年、相対的に給料の高い社員が定年退職し、給料の低い新入社員に入れ替わるため、総人件費は不変となります。
もちろん、全体の社員構成が高齢化すれば、それぞれの昇給に応じて総人件費が増加する事例もありますが、あくまで、それはあらかじめ定められていた制度内における賃金上昇であり、昇給がなかった労働者の賃金は上がりません。総人件費に影響を与えない定期昇給は、マクロで見れば賃上げを意味しません。
「デフレ下でも2%の賃上げ」の誤解
他方、ベアは文字通り賃金体系のベースそのものを引き上げることですから、企業が払う総人件費は増加します。したがって、昇給がない人の賃金も上がります。「私はもう50歳過ぎなので賃上げなんてありません」という声をよく聞きますが、ベアがあれば幅広い年齢層で賃金は上昇します。この点においてベアは純粋な賃上げと言え、マクロ的な賃金上昇を意味します。
筆者も、エコノミストとして駆け出しの頃、これら統計の解釈に苦労しました。春闘賃上げ率は2%なのに、(毎月勤労統計などで示される)日本の賃金上昇率がゼロかマイナスになっているからです。賃上げ率の解釈を難しくさせているのは、厚生労働省が公表している「民間主要企業春季賃上げ要求・妥結状況」など、主要な統計において定期昇給を含んだ数値が「賃上げ率」として取り扱われているからです。
この数値は2000~2020年の平均が+1.9%となっていました。この2%弱の数値が意味するところは「定期昇給」です。一方、その間にマクロ的な(一人あたりの)賃上げ率を示す、毎月勤労統計における一般労働者(≒正社員)の所定内給与(≒基本給)は単純平均で+0.2%と、ほぼゼロ%の推移が続いてきました
これが「日本はデフレ下で賃金を凍結した」とされる根拠になってきた数値であり、日本の実態を示しています。当然、エコノミストや政策担当者等は定期昇給が含まれない数値を重視するのですが、筆者がこの2年程度、いろいろな人に問いかけた答えを基にすると、「(マクロ的な)賃上げ」と「昇給」を区別している人は稀であるように思います。
ベアと定期昇給込みの賃上げ率を区別しないと、あたかも企業がデフレ下でも毎年2%程度の賃上げを実施してきたかのような誤解につながってしまいます。労働者が自身の賃金、労働組合の活動などにもっと強い関心を持っていれば、賃金の停滞は防げたかもしれません。
「賃金上昇」に持続性はある
「収入の増え方」が鈍いことから推察すると、消費者は賃金上昇の持続性を懐疑的に見ている可能性が高いと言えます。ここ数年の賃上げを単なる幸運や偶然と捉えている人が多いのではないでしょうか。
ただ、この点についてエコノミストの見方は、「賃上げは構造的要因が大きい」で一致していると思いますし、筆者もそう考えています。構造的とは、現在の人手不足が人口減少に起因する不可逆的なものと判断されるからです。その点、賃金上昇は一時的なものとは言えないため、労働者からすれば安心です。
まず、企業が直面する人手不足感を日銀短観で確認します。

企業が感じる人手不足感を示す「雇用人員判断DI」(企業の雇用人員の過不足を指数で示したのもの)は、バブル期に匹敵するほどのマイナス領域(人手不足超)にあります。
バブル期との違いは景気の強さです。当時は景気が著しく強く「猫の手も借りたい」状況でしたが、バブルが崩壊すると、企業の採用意欲は急速に衰え、人手不足は解消しました。倒産は増加し、失業率は上昇しました。
それに対して現在は、実質GDP成長率がほぼゼロ成長という状況です。雇用人員判断DIはバブル期と同じような水準にありますが、理由は大きく異なっています。
現在の人手不足の根底にあるのは、人口減少という不可逆的なものですから、多少景気が悪くなっても人手不足の状態は続くと思われます。
▽プロフィール
第一生命経済研究所経済調査部主席エコノミスト。2005年第一生命保険入社。2010年内閣府経済財政分析担当へ出向し、2年間『経済財政白書』の執筆や、月例経済報告の作成を担当。その後、第一生命保険より転籍。2018年参議院予算委員会調査室客員調査員を兼務。2023年4月から現職。早稲田大学大学院経営管理研究科修了(MBA 、ファイナンス専修)、日本証券アナリスト協会検定会員(CMA)。テレビ、新聞、YouTube などを通じて幅広く経済情報の発信を行っている。