料金9万円!「死ぬにも金がかかるんか」…人の死を扱う場が“利益を生む施設”に「東京23区の火葬料金高騰で都が姿勢変更」

2025年10月29日、産経新聞より火葬料金の高騰問題で東京都が姿勢を変更したという報道がなされた。東京都はこれまで「火葬場の運営や料金は民間企業の判断であり、都が関与できない」と説明してきたが、ついに国に法改正を求める方針に転じた。コラムニストの村上ゆかり氏は、火葬難民も出ている状況に「政治と行政の怠慢」と指摘する。村上氏が解説していく――。
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目次
「死ぬにもお金がかかる東京」
東京23区内には火葬場が9か所あり、そのうち7か所を民間企業・東京博善株式会社が運営し、事実上、東京博善が都市部の火葬を独占している。火葬料金は2020年ごろの約5万9000円から2024年には約9万円へ上昇し、全国平均の約4倍に達した。区民割引の「区民葬」制度からの離脱も相次ぎ、遺族の選択肢は狭まった結果、火葬まで1週間以上待つ「火葬難民」まで生じていると複数報道されるようになった。これが、今都内で起きている火葬場問題の概要である。この問題は報道やSNS等で、「死ぬにもお金がかかる東京」という言葉等で広まり、都民の不満が急速に高まった。長年「民間経営に介入できない」として静観してきた東京都も、世論の圧力を受けて方針転換を迫られた。
火葬場問題には主に二つの論点がある。「供給不足と料金高騰を生む市場の独占構造問題」と「経営母体に外国資本が入っているという所有構造問題」である。東京博善は実質的に独占状態にあり、その親会社・廣済堂ホールディングスは、香港を拠点とする中国系投資会社が一部株式を保有している。完全支配ではないものの、「公共性の高い施設に外国資本が関与している」という事実が世論に不安をもたらした。現行法である墓地埋葬法には民間火葬場の料金や経営方針を監視する権限が明記されておらず東京都もこれを理由に「指導できない」と説明し、実際には事業者の価格設定には一切関与してこなかった。結果として、火葬料金は事実上の自由価格となり、消費者は比較も交渉もできない状態に置かれた。
問題が表面化したきっかけは、2024年に東京博善が区民葬制度をやめ、火葬料金を9万円に設定したことだった。報道がこの金額を取り上げるとSNSで急速に拡散し、都民の怒りが可視化され、都はこれ以上の静観が不可能になっていった。
公共サービスを市場任せにしてきた問題
火葬場をめぐる問題は、「料金が高い」「中国資本が入った」というニュースが主に注目を集めているが、根本的には、行政が制度の更新を怠り、公共サービスを市場任せにしてきたことが問題であると筆者は考える。
まず、制度そのものが現状に対応していない。墓地埋葬法は1950年に制定された古い法律で、民間企業が都市で火葬を運営することを想定していない。料金や経営方針を行政が把握する仕組みもなく、問題が起きても「法的に指導できない」と言って終わる。制度が時代に合わないまま放置され、行政の監督権限が実質的に空白となっている。
次に、行政が問題を知りながら放任してきた。東京都は民間火葬場が独占状態になっても対策を取らず、「市場が決める」という説明を繰り返した。公営火葬場の整備は遅れ、結果として民間だけが供給を担う構造が固定化された。価格競争がなくなり、利用者だけが高額負担を背負う形になっている。
さらに、市場の構造自体が閉鎖的である。火葬場を新設するには土地、資金、そして住民同意の三条件が必要で、参入障壁が極めて高い。東京都内では新しい火葬場がほとんど建設されておらず、既存事業者だけが市場を支配している。行政はその独占を事実上容認してきた。競争が働かない市場で、価格は上がり続けている。
人の死を扱う場が「利益を生む施設」と化した
最後に、公共性が失われている。火葬は誰もが必要とする行為であり、社会的・文化的に強い公共性を持つ。しかし、現行制度では営利企業の判断が優先され、行政はほとんど関与しない。人の死を扱う場が「利益を生む施設」と化し、利用者の立場が軽視されている。
この四つの問題は互いに連動している。古い制度が行政の放任を許し、放任が市場の独占を生み、独占が公共性を失わせた。火葬場問題は単なる料金や経営の問題ではなく、行政の仕組みそのものが時代に合わなくなったことを示す象徴的な事例である。この問題はまさに「政治と行政の怠慢」が生み出した問題ではないか。
政治と行政の怠慢は、制度と組織の構造から生まれている。行政は「法的根拠がなければ動けない」と考える文化を持つ。墓地埋葬法に監督権限がないことを理由に、東京都も厚労省も「指導できない」と繰り返してきた。しかし法改正、条例の新設など、やろうと思えばいくらでもやれることはある。
近くに火葬場があることへの抵抗感
やらなかったのは、結局「やる必要がない」と判断したからではないか。
背景の一つとして、火葬場の新設や公営化は「政治的リスク」として避けられてきた。都内では新しい火葬場を建てる計画が出るたびに住民反対運動が起きる。杉並区、目黒区、板橋区などで計画が中止された例もある。反対理由は煙、臭気、交通渋滞などであるが、根底には「近くに火葬場があることへの抵抗感」がある。つまり、行政からすると「民間に任せた方が楽」なのだ。民間が運営してくれれば施設維持費がかからず、苦情が来ても「都の責任ではない」と言える。そもそも、都や厚労省は、民間火葬場の料金や経営実態を公式に調査していない。どこが高いのか、どの程度の待機が発生しているのかという実態を誰も正確に把握していない。つまりは、知ろうとせず、調べようとせず、制度を変えようとしない姿勢が、現在の混乱を生み出した。
海外では、火葬や葬儀の制度を「公共性を持つ市場」として早くから整備している。例えば、イギリスでは2018年、競争市場庁(CMA)が葬儀・火葬の料金上昇を調査し、2021年に「葬儀市場命令」を発令した。すべての事業者に価格表の掲示とウェブ公開を義務づけ、違反すれば罰金を科す。導入後、葬儀費用の上昇率は物価上昇を下回り、地域間の格差も縮小した。情報公開が最も効果的な抑止策であることを示した事例である。
火葬場の運営は「行政と民間の境界」
アメリカでは1984年に連邦取引委員会(FTC)が「葬儀ルール」を制定した。すべての葬儀業者に価格表の交付を義務づけ、不要な抱き合わせ販売を禁止した。現在はオンライン掲載の義務化も進められている。政府が価格を決めず、情報公開によって市場を制御する仕組みである。これらの国に共通しているのは、「政府は価格を決めないが、透明性を守る」という原則である。海外では30年以上前に制度改革が始まっていたのに、日本はこれまで議論すらしてこなかった。
火葬場の運営は「行政と民間の境界」にあり、営利だけでも、行政だけでも持続しない。必要なのは、透明で公平なルールである。行政は価格を決めるのではなく、利用者が比較・判断できるように、事業者に料金や経営情報の開示を義務づけるべきである。
「責任の分散」は、日本の政策形成全体に共通する構造的欠陥
外国資本や民間企業を排除することは、必ずしも安全を守ることにはならない。安全保障の観点で重要なのは、資本の出所ではなく、経営や運営情報の透明性である。火葬場のように公共性の高い施設は、地域の生活基盤であり、社会の安全装置でもある。外国資本が関与する場合でも、法的統制と監視体制が整い、情報開示が確保されていれば実質的なリスクは小さい。逆に、国内資本であっても、経営構造が不透明で説明責任を果たさなければ、それ自体が安全保障上の脆弱性となる。
例えば、中国資本を一律に排除すると、資本の流れを地下化させ、出資経路の把握を困難にする恐れがありさらにリスクを高めるばかりでなく、経済・人的交流の断絶によって相互理解が失われ、結果的に不信と不透明さが増す危険がある。出資比率や経営関与の範囲を明確にし、情報開示と監査制度を通じて「透明な共存」を実現することが、最も安定した抑止策である。
今回の火葬場問題が示した最大の教訓は、「誰も責任を取らない構造が社会を崩す」という一点に尽きる。国も都も区も、自分の権限の範囲だけで動こうとし、最終的な責任を誰も負おうとせず、政治でも殆ど取り上げなかった。その間に制度は古び、現場は限界に達した。この「責任の分散」は、日本の政策形成全体に共通する構造的欠陥である。責任を明確にすることを恐れ、曖昧なまま継続させることで、一見安定しているように見えても、内部では崩壊が進む。火葬場の逼迫はその典型例である。誰も責任を持たないから、情報は共有されず、問題が顕在化しても誰も動かない。この根本的な問題は、火葬場の問題に留まらないのではないか。
「誰も責任を取らない構造が社会を崩す」他責文化が起こす危機は静かに訪れる。だからこそ、静かなうちに気づき、動く社会を作らねばならない。この火葬場問題を契機に、一人でも多く、政治や行政に関心を寄せる国民が増え、政治に主体性を持ってほしいと筆者は願うばかりである。