羽生結弦のエッジ、背負う人の瞳…目を閉じて、想うままに、私のままに書く『羽生結弦をめぐるプロポ』

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羽生結弦をめぐるプロポ 第2回「瞳」「エッジ」
「プロポ」とは『幸福論』で知られるフランスの作家アラン(1868-1951)の創り出した詩的文学の形式である。自由に、自然に、私の想うままに目を閉じて、私のままに書く。始まりから終わりまで水の流れのように「流れるままに」書く。
私は羽生結弦という存在を――まさしく自由に、自然に、想うままに、私のままに滑るプロ転向後の羽生結弦とアランの「プロポ」とを重ねていた。だからいつか、羽生結弦をめぐる「プロポ」を、私のままに書こうと思っていた。
理屈ではなく、あるがままに、恥ずかしいとか、どう思われるだろうかでなく、自分の心だけを見て、羽生結弦だけを見て、てらいなく綴る。
思うがままに、捉えたものを、そのままに。
もうすぐ羽生結弦のプロ転向から二年、私はその想いをプロポとして、綴ろう。
3.瞳 ――その瞳の、奥に宿るもの。
その瞳の奥に、いったいなにが宿っているのだろう。
グッチ銀座、羽生結弦の写真展「In Focus: Yuzuru Hanyu Lensed by Jiro Konami」。モノクロームに包まれたその羽生結弦の貌、その瞳。私を見つめるその瞳に、写真芸術の中に羽生結弦としての主張を見た。
私が媒体を通して、ときに遠くから表情で、あるいは囲みで見た羽生結弦の瞳とは異なる瞳――写真芸術は人の心も映し出す。不思議な芸術だが、羽生結弦もまた、そうした「被写体」としてあった。