テレビジャーナリズム「終わりの終わり」…「内向きに腐敗」のフジテレビ、「外向きに独善化」のTBS

テレビメディアの信頼が揺らいでいる。近年の一連の不祥事や偏向報道の問題が、その根幹を揺るがしている。特にフジテレビとTBSのケースは、組織の腐敗と報道姿勢の問題を浮き彫りにした。ジャーナリズムの理念と実態の乖離、視聴率偏重の体質、報道機関としての自浄能力の欠如——これらの問題は深刻だ。果たして、テレビは公正な報道機関としての信頼を取り戻せるのか。それとも、もはや限界なのか。経済誌プレジデントの元編集長で作家の小倉健一氏が、揺らぐテレビジャーナリズムの現状を考察する。
目次
テレビメディアの信頼崩壊。公器としての使命はどこへ
現代社会においてテレビメディアの信頼は大きく揺らいでいる。かつて社会の公器と目された存在の価値は著しく低下した。放送は本来、有限の電波資源を利用する性質上、高い公共性を担保する必要がある。権力からも大衆からも独立し、真実を追求するジャーナリズム精神こそ、テレビメディアの存在意義の根幹であったはずだ。
近年のフジテレビとTBS『報道特集』を巡る問題は、テレビメディアが本来持つべき公共性、ジャーナリズム精神を喪失し、自らの役割を放棄している惨状を露呈している。フジテレビの性加害隠蔽問題は組織の内向きの腐敗を、TBS『報道特集』の偏向報道問題は外向きの独善を示している。両者は様相こそ異なれ、テレビジャーナリズムの終焉を告げる象徴的な出来事と言えるだろう。公共の電波を預かる「第4の権力」として、テレビ局は今、深刻な岐路に立たされているのである。
第三者委が断罪「重大な人権侵害」フジテレビの対応が招いた惨状
フジテレビの問題は深刻な組織腐敗を物語る。フジテレビジョン及びフジ・メディア・ホールディングスが設置した第三者委員会の調査報告書(2025年3月31日付)は、元SMAPの中居正広氏による同社女性アナウンサー(当時)への性暴力を認定した。報告書は「本事案には性暴力が認められ、重大な人権侵害が発生した」と断じている。問題は性暴力行為そのものに留まらない。フジテレビ経営陣の対応が事態を悪化させた。
報告書によれば、港浩一元社長ら経営陣は「本事案発生後、被害の事実を知りながら、これを『プライベートにおける男女間のトラブル』と矮小化して捉え」、中居氏への事実確認すら行わず、番組出演を漫然と継続させた。
TBS『報道特集』は異なる形での病理を示した
組織防衛と有力タレントへの忖度が、被害者救済や真実解明よりも優先されたのである。第三者委員会は「本事案を、社員に対する取引先からの性暴力・重大な人権侵害の事案であると捉えず、被害者ケア・是正救済、復帰に向けた職場環境整備よりも中居氏との取引を優先したことにほかならない」と厳しく指摘する。フジテレビ内部では「事実の隠蔽」「人権意識の欠如」「ガバナンスの不全」が蔓延していた。報道機関としてあるまじき内向きの論理、腐敗が露呈したのである。
一方、TBS『報道特集』は異なる形の病理を示した。例えば、2024年11月30日放送分は、兵庫県知事選挙で再選された斎藤元彦知事を巡る疑惑を追及した。
番組は知事のパワハラ疑惑と元県民局長の自殺との間に直接的な因果関係があるかのような印象操作を行ったと批判されている。司会の村瀬健介キャスターは、知事の公益通報者保護に関する姿勢を「人ごとのような回答しかありませんでした」「本当に恐ろしいことが起きている」と強く断じた。私は、これまでTBS『報道特集』の兵庫県知事選挙、そしてNHK党立花孝志氏への報道姿勢を「勝手な思い入れの強い内容」と批判してきた。
番組が独自に「有害」と判断した評価
番組が独自に「有害」と判断した評価を基に、一方的に対象を断罪する手法は、報道倫理からの逸脱ではないか。そもそも「有害情報」と「違法情報」は明確に区別されるべきである。「有害情報」の判断基準は主観的であり、報道機関が一方的に断罪することは表現の自由を脅かす危険性を孕む。勝手な解釈による一方的な断罪を繰り返した先にこそ、民主主義の危機がやってくると指摘してきたのである。『報道特集』は、自分のやっていることの危険性に気づかなくてはいけないだろう。『報道特集』は、弱いものの味方のふりをした、弱いものの敵なのだ。TBSの報道は、外向きの独善、報じない自由という問題を抱えている。
フジテレビの「内向きの腐敗」とTBS『報道特集』の「外向きの独善」。両者は対照的な現象に見える。根底には共通するテレビジャーナリズムの構造的問題が存在しており、権力との歪な関係性が挙げられる。フジテレビは内部の権力者である有力タレントに忖度し、事実を隠蔽。TBS『報道特集』は外部の権力者である知事を一方的に断罪した。
視聴者、社会への裏切り…フジとTBSの罪は重い
どちらも権力との健全な距離感を失い、客観性・公平性を欠いている上に、事実に対する不誠実さも共通する。フジテレビは事実を矮小化し、調査を怠った。TBS『報道特集』は事実関係を曖昧にしたまま印象操作を行ったとされる。一方は隠蔽、他方は独善。手段は違えど、真実から目を背ける姿勢は同じである。倫理観の欠如も深刻だ。フジテレビは人権尊重、コンプライアンスといった企業・組織倫理を蔑ろにした。TBS『報道特集』は公平性、客観性といった報道倫理を逸脱したと批判されるべきだ。そして両者ともに、視聴者・社会に対する説明責任を放棄している。一方は内向きの保身(フジ)、他方は外向きの独善(TBS)と様相は違えど、視聴者・社会への裏切りという点において、両者の罪は等しく重い。
なぜテレビは、こんなにも問題だらけになってしまったのか。いくつかの根深い理由がある。フジテレビの問題を見れば、経営トップの資質の低さ、会社を正しく治める仕組み(ガバナンス)の崩壊、変化を嫌う組織の古さがわかる。第三者委員会報告書は「組織の同質性・閉鎖性・硬直性」が「思慮の浅さ」「集団浅慮」を生むと分析した。一方、TBS批判で指摘されたのは、業界特有の問題である。
新聞社とテレビ局、同じ資本という状況が馴れ合いを生んだ
新聞社とテレビ局が同じ系列、同じ資本という状況が馴れ合いを生み、健全な競争や相互監視を阻害してきた。日本の民放キー局は基本的に新聞社の子会社であり、テレビは新聞と競争関係にはない。それゆえに、ジャニー喜多川による性虐待問題は、隠蔽され続けてきたわけだ。
総務省から電波利用権を与えられる許認可事業である点も、政府への潜在的な配慮を生む土壌となりうる。経営者のメディア環境変化への理解不足、記者クラブ制度に代表される閉鎖性、自己検閲文化も、ジャーナリズムの健全な発展を妨げてきた。視聴率ばかり追いかける姿勢も、番組をつまらなくし、安易な善悪論や一方的な報道を増やしている。これらの構造が、フジテレビのような「忖度」や「隠蔽」、TBSのような「一方的な決めつけ」を生む土壌となっているのである。
フジテレビとTBSの問題は氷山の一角かもしれない。忖度、隠蔽、独善、脚色。これらは現代のテレビが抱える病である。
「ジャーナリズム」という看板を掲げ続けることを自問すべき
テレビ局は自浄能力を失い、社会の公器としての役割を果たせなくなりつつある。スポンサー離れや視聴者のテレビ離れは、経済的基盤のみならず、メディアとしての存在意義をも揺るがしている。ジャーナリズムの「終わり」は、もはや単なる警句ではないのかもしれない。
テレビ局は、自らが抱える問題を直視すべきである。フジテレビのように内部の腐敗を隠蔽する組織が、あるいはTBS『報道特集』のように自らの価値観で他者を一方的に断罪する番組が、高尚なジャーナリズムや公共性を標榜すること自体に無理があるのではないか。終わりの終わり、テレビジャーナリズムはもう限界なのかもしれない。
自主性は何よりも尊重されるべきであり、表現は自由であるべきだ。テレビジャーナリズムは、自らの問題を棚に上げて他者を批判したり、断罪したりする権利など持っていない。自らも問題を抱えている現実から目を背け、ジャーナリズムという看板を掲げ続けることの欺瞞性を、テレビ局は自問すべき時である。公共の電波を預かる存在として、自らの立ち位置と限界を真摯に見つめ直すことが、信頼回復以前の最低限の責務であろう。これからも芸能事務所への忖度は、競争状況として続くのは間違いない。であるならば、テレビは報道ごっこをやめ、自らの実態と向き合うべきではないか。