成田悠輔「わからなさこそが資本主義」なぜ金より株が上昇したのか

私たちは資本主義社会の中に生きている。そのことに異を唱える人はまずいないだろう。では「資本主義とは何か」と問われたとき、説明できる人はどのくらいいるだろうか。ただし経済学者の成田悠輔氏によると、「そもそも資本主義の本質はわからなさにある」という。私たちは「資本主義」をどう捉えるべきなのか、成田氏が自らの考えをつむぐ。全3回中の1回目。
※本稿は成田悠輔著「22世紀の資本主義 やがてお金は絶滅する」(文藝春秋)から抜粋、再構成したものです。
第2回:なぜ人はブランドバッグをありがたがるのか…成田悠輔「人は現実よりも幻想を評価する」
第3回:成田悠輔「個人によって物の値段が異なる社会がやってくる」そして誰もが比較されない社会へ
目次
「資本主義」とはそもそも何なのか
すべてが資本主義になる、あるいは、すべてが市場経済の契約になり、商品になり、取引になる。私はそう思う。なんだ、いきなり市場原理主義者の妄言かとうんざりされるかもしれない。そうだ。死人がゴロゴロ出るような、悪夢と現実の区別もつかなくなるような、徹底した資本主義と市場経済だ。
そんな22世紀へ飛ぶためには準備がいる。まずは今どこにいるのか、風はどちらに吹いているのか知る必要がある。現状認識は単純だ。資本主義が暴走している。その本質をますます大規模に、高速に、極端に露わにしている。そこからはじめよう。
だがそもそも、資本主義とは何だろうか。この言葉を定義しなければ、「すべてが資本主義になる」ことの意味も掴めない。実のところ「資本主義」という言葉は意外に若く新しい。フランス語、ドイツ語、英語で「資本主義」という言葉が用いられるようになったのは、19世紀後半のことに過ぎない。そしてそこから100年以上が経った今でも、定義が曖昧でグラグラしている。老人らしく辞書を調べるとこんなことが書いてある。
【資本主義】
「資本家が生産手段を私有し、労働力以外に売る物をもたぬ労働者の労働力を商品として買い、搾取によって労賃部分を上回る価値を商品を生産して利潤を得る経済。封建制に次ぎ現れた経済体制で、産業革命によって確立された。」(大辞林)
「資本財の私的所有または企業所有、私的に決定される投資、そして主に自由市場での競争によって決定される財の価格・生産・流通を特徴とする経済システム」(Merriam-Webster)
「各国の貿易や産業が、国家ではなく、営利を目的とする私的所有者によって管理される経済システム」(Oxford English Dictionary:OED)
わかったようでわからない。雲を掴むような説明である。「資本」とは何か、「生産手段」とは何か、「財」とは何か、何でないかがよくわからないからだ。でもちょっと考えると、この雲を掴むような掴みどころのなさ、よくわからなさこそ、資本主義の本質なのではないかと私は思う。
「財」や「生産手段」や「資本」の中身が変幻自在に変わっていくこと、だんだん捉えどころがなくなっていくこと、そして固まった定義からひたすら逃れつづけること。それこそ資本主義の本性だからだ。何の話をしているのか、フワフワとした気分や印象だけ持ち出してもしょうがない。いくつかの体験と事実からはじめてみよう。
スカスカの詐欺情報に億単位のお金を貢がされる
寓話:私は詐欺師
こんなニュースを見た。
【投資名目】60代女性が特殊詐欺2億1000万円被害 福岡県内で最高額
女性はSNSで知り合った「成田さん」と名乗る人物から投資の知識や方法を教わり、指示された実在の投資サイトに口座を登録。複数の口座へ送金を指示され、計2億1052万8458円を振り込んだという。
ちょっと前まで、FacebookやInstagramなどのSNSに、さも私が投資を勧めているかのような広告が躍っていた。まず警告する。これっぽい広告はみんな無断で違法のなりすまし詐欺広告である。万が一周囲に私や他の怪しげなインフルエンサー(笑)にLINEか何かで投資指南を受けているというお知り合いやご家族がいらしたら、すぐに全力で止めてほしい。
何の話なのか。詐欺やなりすましはやめよう気をつけよう、事業者もSNSで金を稼ぐなら違法詐欺広告の取り締まりぐらいちゃんとしろというしょうもない話だ。でももうちょっと踏み込んだ捉え方もできる。生身の人も物も介さず、スカスカペラペラの詐欺情報に人間が億単位の金を貢ぐ。なりすましアカウントの多くがChatGPTか何かの生成AIで作られているらしく、独特のぎこちない言葉づかいで迫ってくることがますます感慨深い。
ここにあるのはAIたちが織りなす無人で無形な資本主義の醜い原形。そしてその養分に堕ちた生身の人間たちの終わりの始まりである。
金より株の時価総額が大きいワケ
寓話:金vs株
こんな風にお金が流れる経済とは奇怪な場所である。しかしそもそも市場経済とは何だろうか。商品やサービスの需要と供給を調整して誰が何を作るか作らないか、やるかやらないか、手に入れるか入れないかを決める装置である。そのために市場はよく商品やサービスに値段をつける。商品やサービスも様々だ。
たとえば純金を考えよう。そこには目で見て手で触れる物理的実体があり、今ここでわかりやすい経済的利益や流動性を与えてくれる。だから人は世の中の先行きが見えず不安になると金を買う。私も子どもの頃からの貧乏性で、金の延べ棒を握るとシャブでもやったみたいにホッとする。
もうひとつ、株式を考える。株式は物理的実体のない権利である。未来に生まれるかもしれない経済的利益を無理やり現在価値に置き直して証券化し、今ここで価値があるということにしようとみんなで決めた危なっかしいものだ。そして今ここよりも将来に向かって価値を爆発させるかもしれないものである。今ここでの価格や流動性だけを求めて現金や純金より株式を買う人はいない。
金と株――水と油のように異質である。異質な両者の市場価値を比べてみよう。世界中に存在するすべての純金の時価総額の合計と、世界中に存在するすべての上場企業の時価総額の合計を比べる。
今から半世紀近く前、金と株は同じぐらいの時価総額だった(それぞれ約2.5兆ドル)。それが最近では様子が違う。株式がぶっちぎってちょうど10倍ぐらいになっている(金が約12兆ドルvs株が約115兆ドル)。この比較は全純金と全株式の比較だが、一定の重さあたりの純金の価格と上場企業一社あたりの平均時価総額を比べても同じ結論になる。ここ数十年、金の価格より株の価格が圧倒的に早く伸びている。
この背後にはもちろん様々な要因がある。ただ一つの解釈はこうだ。金のようにいま目の前で見て触れる便益をくれるものより、株のように目に見えぬ未来に価値を爆発させるものかもしれないものの市場価値が膨張している。現在は現実であり、未来は幻想である。だから現実よりも幻想の価格が高まっていると言ってもいい。