200円の株価が2900円に!「兜町の風雲児」が仕掛けた伝説の仕手戦

「兜町の風雲児」と呼ばれた伝説の相場師・加藤暠(あきら)。加藤は、投機家同士が売り方と買い方に分かれて争い、投機的な売買で激しくぶつかり合う相場である“仕手戦”を得意とした。そんな加藤の代名詞ともいえる「宮地鉄工所の仕手戦」の裏側に、ノンフィクション作家の西﨑伸彦氏が迫った。全3回中の1回目。
※本稿は西﨑伸彦『株の怪物 仕手の本尊と呼ばれた男・加藤暠の生涯』(宝島社)より抜粋・再構成したものです。
第2回:「ホテルオークラ史上最大規模のパーティー」を開いた男は田中角栄の誘いを断り、東証・大蔵省・四大証券につぶされた
第3回:「拘置所にいたおかげで、殺すのを後回しにされた」兜町の風雲児が考え出した斬新すぎる投資のスキーム
目次
全力勝負に出た「宮地鉄工所の仕手戦」
『小説兜町』でデビューを飾り、株の世界を知り尽くした経済小説の巨匠、清水一行が一九八三年に発売した『擬制資本』は実在の仕手戦をモデルにした小説である。作品のなかでは仮名となっているが、そこには東証一部上場企業の橋梁メーカー「宮地鉄工所」と株の買い占めを図った加藤暠を擁する誠備投資顧問室との「食うか、食われるか」の熾烈な攻防がスピード感溢れる筆致で描かれている。
資本金一五億円、七九年十二月までは株価は二〇〇円台で、決して知名度が高いとは言えなかった宮地鉄工所の株が翌年三月には八〇〇円台に急騰。四月に入ってもたつき始めた株価を見た売り方は、このあたりが天井だと睨んで一気に空売りを仕掛けた。
空売りは、将来の値下がりを見越して行なう信用取引のことで、手元に所有していない株式を証券会社から借りて売り、決済期日までに買い戻して証券会社に返し、その差額で儲ける。通常の株式取引とは逆で、高値で売り、安値で買い戻せば、それだけ儲けが増える仕組みだ。
加藤の仕手戦の方程式は、株価が天井をついたと見せて、売り方を巧に空売りに誘い出し、自らはその銘柄を買い上げ、流通株式を極端に少なくしていき、値幅制限いっぱいに株価を上げて行く。
結果として、売り方が高値で信用取引の買い戻しをせざるを得ないように追い込む。売り方はたちまち巨額の借金を背負うことになる。そうして空売りを踏み上げて高値を目指していく、それが、「踏み上げ相場」である。加藤は生涯、近しい人には「俺にしか出来ない、踏み上げ相場がある」と豪語し、それは加藤の代名詞にもなった。
大蔵省と東証による誠備排除
宮地鉄工株では、四月に天井を思わせた株価が、五月に入ると連日のストップ高を繰り返しながら、月末には一八九〇円を記録。その過程で、買い手の中心には誠備グループがいることが明らかになる。
そこに横槍を入れたのが、大蔵省と東証だった。新聞各紙は、五月三十一日付の紙面で、大蔵省と東証が、投機筋によりバクチ場と化した株式市場の混乱を鎮める目的で、翌年一月から仕手株になりやすい資本金三〇億円未満の小型銘柄の信用取引は停止するという方針を一斉に報じた。
事実上の宮地鉄工株の買い占め規制だった。その背景には、加藤に目の敵にされ、仕手株人気の煽りを食った四大証券からの突き上げがあったことは想像に難くない。
思惑通り、週明けの六月二日からは宮地鉄工株の投げ売りが始まったが、六月半ばには、黒川木徳証券から大量の買いが入り、株価は再び上昇気流に乗っていく。加藤の意地と底力がなせる技だった。八月には二九〇〇円台まで吹き上がったものの、そこから株価は高値で張り付き、仕手戦は完全に膠着状態に陥った。
加藤の妻、幸子が振り返る。
「当時は、株券の裏を見れば誰が株を売ったかが分かりました。会社側の役員やメインバンクなどがこっそり保有株を高値で売って儲け、株主総会までに安値で買い戻し、株数を揃えて辻褄を合わせておくケースが多々ありました。宮地鉄工の場合もそうでした。売り物がどんどん出てくるので、片っ端から買い進めると、実は〝乗っ取り〞だと騒いでいる側が売っていた訳です。ところが、役員らが買い戻そうにも株価が下がらず、誤算が生じた。こちら側の資金力を甘くみていたのです」
宮地鉄工所の七〇%の株式を取得
宮地鉄工所のケースでは、社長の宮地武夫の実弟である副社長が持ち株一四万六〇〇〇株のうち五万株を、監査役も七〇〇〇株のうち二〇〇〇株を売っており、他に宮地姓の株券も計五〇〇〇株ほど売られていたという。誠備グループは宮地鉄工所の全株式の約七〇%以上を買い占めた。
秋口に入り、加藤の依頼を受け、宮地鉄工所の宮地社長の元をたびたび訪れていた人物が複数いる。その一人が、平和相銀やヂーゼル機器の仕手戦に繫がる人脈のなかにいた大物右翼の豊田一夫である。
豊田は、三井不動産の江戸会長を通じて宮地社長に面談を求め、誠備グループが集めた株を宮地鉄工所側に引き取らせる交渉の感触を探りつつ、臨時株主総会の開催を要求した。この頃には誠備グループ側は、買戻しから経営に参加する方針に舵を切り、誠備グループが買い付けた約一〇〇〇万株の名義を入内島宏なる人物に書き換えていた。
入内島が宮地鉄工株の個人筆頭株主として登場すると、様々な憶測を呼んでいく。入内島は、田中角栄を支え、刎頸の友と呼ばれた入内島金一の親族だとも囁かれていたが、彼には二〇〇億円超と言われた株の買い付け資金を捻出する資力などなかった。彼は豊田が殉国青年隊から改組した日本青年連盟の旧会員で、豊田宅の敷地内の長屋に住み、定職もなく、肝硬変を患っている人物だった。
兜町全体が固唾を呑んで推移を見守るなか、仕手戦の行方は、誠備側の提案で開かれた一九八〇年十一月二十七日の臨時株主総会で一つの天王山を迎える。ここでは誠備グループが推す新たな役員が承認され、会長には元ユニチカ副社長の桜井弘、専務には元警察庁総務課理事官の坂健、そして監査役には元関東信越国税局徴収部長で税理士の大谷多郎が就くことになった。