花言葉は「希望」、そして「前へ」・・・「羽生結弦 notte stellata 2026」私たちの春が、来る。(2)

目次
私たちの春が、来る。
春、信じてよかった。
春は、来る。
春は待つこと、祈ること。
春よ来いと、願うこと。
春は必ず、来る。
3月、羽生結弦の春が、あの星々の春が、私たちの春が、来る。
notte stellataの春が来る
2026年3月7日、8日、9日。再び宮城県、セキスイハイムスーパーアリーナで「羽生結弦 notte stellata 2026」の開催が発表された。
以前も書いたが、私はnotteが好きだ。大好きだ。みなさんもそうだろう。
あったかくて、幸せになれる。
楽しくて、驚きと発見があって、そして祈りとその先の希望がある。確かに、ある。
競技会時代、アイスストーリーを始めどれも好きだが、そんなnotteが大好きだ。「notteも」とは言いたくない。どれも比べることも並べることもできない宝物だ。
震災と、そこに生きた人々
私は当時のエッセイにこう書いている。
〈羽生結弦はこれまでも自分の「経済効果」を、震災のため、多くの人々のために使ってきました。震災直後の活動費、競技費用が決して潤沢ではない時代から、羽生結弦は震災に寄り添い、チャリティショーや地元パレードに出演したり、惜しげもなく寄付したりを続けました。真正面から「震災」と向き合ってきました〉
〈それはあのとき生きたかったはずの人々、生き残った人々、その家族や友人、自分の葛藤と戸惑いを愚直なまでに、すべての震災という、時代を共有した人々すべての記憶を永遠にしたいという想い。「羽生結弦」という媒体をぜひ使って欲しい、僕自身は何を言われてもかまわない、だから少しでもいいから、震災と、そこに生きた人々、そこに生きる人々を忘れないで欲しい、と滑り続けてきたと思うのです〉
その、彼の願いの叶った『notte stellata』。だから、好きだ。
notteには羽生結弦の社会性が詰まっている。私は社会性のある作家が好きだ。私もそうありたいとルポルタージュであれ文芸であれ、「私の為し得る限り」に思っている。
ここで言う「社会性」とは表現芸術や文芸創作における「共感」である。他者に対する共感の姿勢ーー喜びも悲しみも、そうした人が人である限り逃れられない、社会における生き様(いきよう)を作品にして社会に贈る、社会に還元する、社会に問う。
これができる作者は信用できる作者だ。利他の精神がなければ社会性を内包した作品は生み出せない。人の心を揺さぶる作品は生まれない。