花言葉は「希望」、そして「前へ」・・・「羽生結弦 notte stellata 2026」私たちの春が、来る。(6)

目次
notteは異界と繋がった
萬斎は、闇に飛んだ。
そして、消えた。
羽生結弦という存在と、その霊力のままに。
2025年『notte stellata』もまた「事件」は起きた。
優れたエンタメとは事件性がある。
何も物騒な話ではない、歴史的に見ても舞踏芸術ならヴァーツラフ・ニジンスキーの『牧神の午後』、アンナ・パブロワの『白鳥の湖』、カタリナ・ヴィットの『カルメン』もまたそうだろうか。
もっと遡り、日本の舞踏芸術とするなら能の観阿弥、世阿弥の『自然居士』などそうだろう、『卒塔婆小町』でも構わない。狂言の誕生もこの流れに連なる日本史における「事件」であった。
その継承者、野村萬斎と羽生結弦の、コラボ。私は当時、こう書いている。
〈ああ、困った。怖い。野村萬斎、私は愚かだった。真の伝統とは恐ろしいもの、そして羽生結弦は羽生結弦を必ず超えるとわかっていたはずなのに〉
〈萬斎が漆黒の闇に飛んだ、本当に飛んだ。怖い。怖いのに涙が出る。これが伝統だ、羽生結弦の世界だ。優しくてあたたかくて、それでいて怖い、神の領域――。そうだ、神事だ〉
鎮魂のnotteは異界と繋がった。
〈なぜ人にとって異界と出会うことが必要なのか。それは異界と出会うことによって「神話的時間」を体感し、そして人生をもう一度「リセット」できる可能性を感じるからではないだろうか〉※1
下掛宝生流の能楽師、安田登(ワキ方)はこう語っている。何をどこで演ずるにせよ、踊るという行為は神との接触である。異界へと誘う「神事」である。
野村萬斎と羽生結弦の「狂」
当の萬斎も自著にこう述べている。※2
〈「狂言」という字を見ると、いかにもいかつい言葉である。「狂」の字がその原因であろう。しかし「狂」の字は「物狂い」やシャーマニズムに代表されるような、取り憑かれた状態を意味するとも聞く〉
〈演じるということはそもそも「狂う」ことであろう。登場人物になり代わり劇場空間を「狂」の状態へ誘う。しかし我々能楽師・狂言師はそれを観念や感情だけで起こそうというのではなく、あくまで身体的昂揚に頼る。逆に感情なり、エネルギーが高まれば必ず身体は反応して動く〉
notte2025は野村萬斎と羽生結弦の「狂」でもあった。