あなたが「自分は組織に向いていない」と思うのは当然なワケ…“本当の自分”探しなどムダ

高崎のラーメン屋のオヤジも、きっと自分探しがやめられなかったのだ
高崎の郊外の住宅地で、ふと出くわしたラーメン屋にふらっと立ち寄ったことがある。もう何十年も前だ。いまよくあるおしゃれなカフェ系のラーメン屋とは無縁な、それこそ場末の、テーブル席が二つであとはカウンター席のみの狭い、ありふれた店だ。店のオヤジも中年の、いかにもラーメン屋のオヤジの典型を一身に凝縮したような風貌を呈していた。
しかし、実に奇異に映ったのは、そんな店に、壁一面の巨大なフロイト[19世紀後半から20世紀初頭にかけてのオーストリアの精神分析医・思想家]のポスターが貼られていたことだった。通常ならビール販促のポスターや地方の演歌歌手のコマーシャルのポスターが貼られているであろう位置に、である。
そこで、私はこんなことを妄想する。このオヤジは、元は研究熱心で誠実な精神科の勤務医だったのだ(フロイトを信奉する精神科医はだいたい研究熱心で誠実だ(笑))。しかし、日々患者の診察の数をただ消化しなければならない事情から、効果のほどは定かではないことを知りつつもたんに薬剤を患者に処方してすませざるをえない業務に汲々としている日々が、ほとほといやになる。医師の肩書きなぞなくてもいい、もっと自分がのびのびとできる仕事があるのではないか。彼はこうして病院を退職し、あれこれと「〝本当の自分〟を探す」遍歴を重ねたあげく、この街に漂着して、しがないラーメン屋をスタートさせたのではないか……。
こんなことを思いめぐらせながらラーメンをすすったのだが、「妄想のなかの〝元精神科医〟」の境遇に深く同情しつつも、「昔取った杵柄」で、彼はいまでも心中では店の客を冷徹な眼で観察し、客らの〝無意識〟とやらを見透かしてひとりほくそ笑んでいるのかもしれない、と考えると気が気ではなかった。
今はもう、店名はおろか、その店がどこにあったのかすら思い出せない。
自分らしさとは何か?哲学の境地から
「〝本当の自分〟を探す」とまで崇高なテーマをかかげ、探求を極めなくてもいい。おそらくこんな思いを、だれしもが一度くらいはいだいたことがあるのではないだろうか。「今の仕事や環境と、自分の嗜好や傾向の間に何か齟齬があるように思う」「この環境にいると、自分〝らしさ〟が失われていくような気がする」「自分がやりたいことが何かわからない」等々。
ここで興味深いのは、自分の嗜好や傾向と、自分をとりまく環境とのミスマッチングにいらだち、自分〝らしさ〟を喪失しつつあることにやりきれなさを感じながらも、では自分が本来もっている嗜好や傾向とは何か、あるいは自分〝らしさ〟そのものとは何かを問われても、明確に答えることができない、ということである。