小山田圭吾の障害者いじめは”作られた”のか…世紀の大炎上までの「情報ロンダリング」五輪開会式”直前辞任”

 ミュージシャン小山田圭吾氏が2021年7月に東京五輪開会式の音楽担当として発表された途端、過去に雑誌で語った(あるいは語らされた)学校生活時代の障害者に対する「いじめ」発言がSNSで炎上した。音楽家としてのキャリアの中断を余儀なくされることとなる約27年前の記事は、小山田氏を「いじめっ子代表」として見込んで企画を立てたある雑誌編集部の新人ライターから生まれたものだったーー。(第1回/全2回)

※本記事は、片岡大右著『小山田圭吾の「いじめ」はいかにつくられたか 現代の災い「インフォデミック」を考える』(集英社新書)より抜粋・再編集したものです。

いじめネタを楽しんでいた雑誌編集者の「いじめ観」

 「SPA!」の特集で「新しい”語り部”たち」のひとりとして取材されている「QJ」編集部の村上清の発言は、異彩を放っていると言えるだろう。村上は、当初は外部の新人ライターとして同誌第3号(1995年8月)より「村上清のいじめ紀行」の連載を始め、やがて太田出版の社員となって、同誌の2代目編集長を務めたのち書籍編集部に移り現在に至る。以下、連載休止中(二度と再開されることはなかった)の1997年の時点で、この村上が他誌に何を語っていたのか、彼への取材部分の抜粋を掲げよう。

 説教くさいいじめ論に「吐き気がする」と、「クイックジャパン」誌上で連載『いじめ紀行』を始めたのが村上清氏である。元いじめっ子の小山田圭吾や、元いじめられっ子の漫画家・竹熊健太郎のインタビューを試みた。

「小山田さんのいじめ話で、こんなに喜々としていいのかというぐらい楽しんでいる自分がいた。だから、それも伝えようと思った。人はいじめでこんなにも喜々とするものなんだと……。最近考えるんですけど、いじめはなければないで気持ち悪いなぁ、と思う」

 いじめを否定しつつ、楽しんでしまう自分に、彼自身とまどいを感じているようだ。しかし現実に、凝ったいじめを笑って傍観している子供が多い以上、いじめのエンターテインメント性という”タブー”も語られるべきではないか。

 村上の発言が異色なのは、いじめっ子の側の心情に注目し、いじめが加害者やその傍観者にもたらす楽しみの感情を率直に取り上げている点ではない。

尾木ママが考える「いじめ」がなくならない理由

 「尾木ママ」としてお茶の間のご意見番のような存在となる以前の尾木直樹は、2000年刊行の岩波新書『子どもの危機をどう見るか』のなかで、次のように明快に述べていた。

「弱い者をいじめることは、人間として絶対許されない」などと文部省がいうような、精神主義的な圧力を加える「心の教育」によって、いじめを撲滅することはほとんど不可能です。

 いじめの原因は「道徳心や規範意識等の問題ではなくて、ストレス」であり、しかも今日の学校こそが子どもたちの主要なストレス発生因となっている。だからこそ子どもたちはいじめ加害へと惹き寄せられる。いじめは、「面白い」からだ。

 いじめがなくならないのは、いじめが人間の本能であるからでも、学校や家庭における道徳教育や「心の教育」に問題があるからでもありません。誤解を恐れずに端的に言いますと、「面白い」からです。

 こうして尾木は、自ら行った「なぜいじめは面白いのか」と題する調査の結果を紹介しつつ、以下のように結論づける。

 これだけ「面白」くては、「人として許されない」などと道徳を振りかざし、いかに教師や親が力んでも、効果は期待できそうにありません。言うまでもなく、この「面白さ」は決して人間的ではありません。しかし、そういうネガティブな感性を有しているのも「人間」なのです。これらを丸ごと表出する過程にも親や教師が丁寧にかかわることによって、子どもは「人間味豊かな人」として確かに成長するのです。

 いじめの「面白さ」や「楽しさ」を認めることは、「誤解を恐れずに」といった但し書きが必要な程度には問題含みであるにしても、この問題に取り組む少なからぬ人びとにとって、真摯に現実に向き合うには欠かせないステップとみなされてきたように思う。その意味で、村上清への取材記事で言われているのとは異なって、「いじめのエンターテインメント性」はなんら「タブー」ではない。

 物語をつむぐ人びとはこの人間的真実を作中で取り上げつつ、子どもたちの織りなす人間ドラマを繊細に描き出そうと努めてきたのだし、教育問題を語る人びとはこの同じ真実を直視しつつ、被害者はもちろん加害者も含めた子どもたちの人間的成長の道筋を展望してきた(尾木は前掲書に、「加害者救済こそいじめ克服の近道」と記している)。

 村上の認識の特異性は、いじめの実像を捉えようとする誰もが注目しながらもあくまで全体の構図の一側面として捉えてきた加害の「楽しさ」を、誰も直視する勇気を持たずにきた危険なタブーであるかのように思い込み、ただそれだけを強調することが既存のいじめ観を刷新する画期的な意義を持つものと信じた点にあると言えるかもしれない。

 小山田圭吾は、このような認識を持つ駆け出しライターの発案になる連載企画の第1回ゲストとして、「いじめっ子」代表のような位置づけで取材を受けることになった。

小山田圭吾とはどのような音楽家なのか

 小山田圭吾は間違いなく、過去四半世紀の日本の音楽を世界に向けて代表するひとりだ。

 小沢健二とのデュオ、フリッパーズ・ギター(1989-1991)解散後にCornelius/コーネリアスを名乗ってソロプロジェクトを始動し(1993-)、「渋谷系のプリンス」(※1)として首都の一角の文化的環境の顔とみなされた音楽家は、1997年の傑作『Fantasma』の全世界リリースにより世紀末日本文化の粋を体現する存在として惑星を驚かせたのち、2001年の『Point』に至って、特定の地域性を超えたところで聴かれる普遍的な音楽のつくり手となった。(※2)

 『Point』以後の20年、コーネリアスの音楽を必要とする人びとが世界に絶えることはなかった。『Point』は、音楽と映像をシームレスに結びつける新しい探究の出発点ともなった。この時期以降、コーネリアスはライブとミュージックビデオを通し、楽曲と不可分の印象を与える鮮やかな視覚上の冒険によっても国内外で注目を集めてきた。とりわけ、映像面での主要なパートナーとなった辻川幸一郎の貢献は大きい。

 その辻川を映像監督のひとりに迎えた東京2020オリンピック・パラリンピックの開会式(2021年7月23日)で小山田圭吾が作曲を務めるというのは、だから過去20年の日本人による文化実践の最も先鋭的な部分がどこにあったのかを思い、それが獲得してきた国際的反響に鑑みるなら、最良の選択肢のひとつだったと言えるだろう。

 小山田にとって、NHK Eテレの教育番組『デザインあ』(2011年4月より本放送開始)の音楽を担当し、創造的な音楽によって子どもたちの日々と関わるようになったおよそ10年間の経験が、どれほど喜ばしく充実したものだったかは想像に難くない。

 東京オリンピック・パラリンピック開会式の音楽担当を引き受けたのは、豊かな才能をもって社会と関わることを喜びとするこのような芸術家だった。

※1 なおこの表現は、小山田本人が「渋谷系」という規定に違和感を覚えつつ諧謔的に口にしたのが一般に広まったもの。

※2 「『Fantasma』の海外のプロモーションでは、さすがに”フジヤマ”とか”ゲイシャ”とか言われることはなかったですけど、”オタク”とか”カワイイ”とか、新しい”ニッポン”の感覚として聴かれているんだな、という感じはありましたね。”ジャパニメーション”について聞かれて、全然興味がないんで困ったり(笑)。『Point』の時はそういうことはほとんどなかったんじゃないかな。みんな、”日本人のミュージシャンの~”というより、”ひとりのミュージシャンの”新譜を待っていてくれた雰囲気はあった」(取材・文=磯部涼、「QJ」第68号、2006年10月、138頁)

いじめ記事が炎上した、情報ロンダリングの罪

 そんな小山田は、どのようにして辞任を余儀なくされたのか。7月23日の開会式で小山田圭吾が作曲を担当することが発表されたのは同月14日夜、おそらく21時台だと思われる。そして翌日のツイッターの「炎上」を、「毎日新聞」はその日の夜には報じてしまう。

 決定的だったのは、午前7時43分に投稿された以下のツイートだ。

 オリパラ開会式の作曲メンバーに選ばれた小山田圭吾さんってどんな人なのかなと思ったら、雑誌のインタビューで障がいがある同級生への壮絶ないじめを武勇伝みたいに語ってる。/いじめというより犯罪で読んでて吐きそうになった。/こんなのオリパラの作曲させるのか…。

 自公政権と五輪開催への反対姿勢で知られ、約2万5000フォロワーを抱える有力アカウント「はるみ」によるこのツイートは、大規模に拡散された。

 7月16日18時半過ぎに、ツイッターのコーネリアス公式アカウント上に小山田圭吾の謝罪文が投稿される。「毎日新聞」以外の主要紙はそれを受けて初めて、同日夜または翌17日午前中までに、この件に関しウェブ上に記事を掲載した。

 「日経新聞」「産経新聞」「東京新聞」の記事は共同通信ベースであり、「読売新聞」の記事もそれに準じるごく簡潔なもの。いずれの記事も無記名だ。

 なお、「朝日新聞」は記者2名の記名記事を掲載した(ウェブ版16日、紙面は17日朝刊)。インターネットの「炎上」を報じ、ただちに英語版も公開した「毎日新聞」は、この件を内外の主要メディアで扱われるにふさわしい大問題として確立するのに決定的な役割を果たした。

片岡大右著『小山田圭吾の「いじめ」はいかにつくられたか 現代の災い「インフォデミック」を考える』(集英社新書)

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この記事の著者
片岡大右

批評家。1974年生まれ。専門は社会思想史・フランス文学。 東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。 単著に『隠遁者,野生人,蛮人――反文明的形象の系譜と近代』(知泉書館)、共著に『共和国か宗教か、それとも』(白水社)、『古井由吉 文学の奇蹟』(河出書房新社)、『加藤周一を21世紀に引き継ぐために』(水声社)、訳書にデヴィッド・グレーバー『民主主義の非西洋起源について』(以文社)など。

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