「かすかな畏怖をもっていた」小山田圭吾のいじめは”作られた”のか…月刊カドカワで語った障害者K君への違う顔
2021年7月、国際的に活躍しその音楽性を高く評価されてきたミュージシャン・小山田圭吾氏はインターネットで「炎上」した。「いじめというよりは、もう犯罪に近い」とされる過去の行為を世間に取り沙汰され、あらゆる仕事を失った。記事で「いじめられっ子」とされた彼と小山田氏の交流は、いじめっ子といじめられっ子の関係だったのだろうか? 事実に反するまでに歪んだ形で伝わってしまった、小山田氏の小中高時代の出来事に迫った。(第2回/全2回)
※本記事は、片岡大右著『小山田圭吾の「いじめ」はいかにつくられたか 現代の災い「インフォデミック」を考える』(集英社新書)より抜粋・再編集したものです。
小山田圭吾と障害者「K」の本当の関係性とは
まずは小山田圭吾が1990年代の雑誌に残した一連の発言を、その文脈を含めて見ていくことにしたい。
小山田はいじめ、それも「障害者とみられる同級生2人」へのいじめのために告発された。けれども、根拠とされる1994年と1995年の2誌に先立ち、彼はソロデビュー前の「月刊カドカワ」1991年9月号(図1参照)で、すでに障害のある児童・生徒との関わりを語っていた。そしてこの記事からうかがえる関係性は、いじめっ子/いじめられっ子というのとは異なっている。
(図1)
フリッパーズ・ギター特集の一環として掲載されたこの「スピリチュアル・メッセージ」(インタビューを長い独白として構成した同誌恒例の記事)で、彼は小学2年時のある「知恵遅れの子」との出会いを振り返っている。なお─当時の小山田によるこの言葉の使用を差別意識の表れとして糾弾する向きがあるので付言しておくと─、「知恵遅れ」という言葉は当時、当事者家族や教育現場でもふつうに用いられていた(※1)。
二年のときにKという知恵遅れの子が転校してくるんです。ぼくらの学校は身体障害者の人が多いんだけど、特別にクラスは作らないで普通に入ってくる。Kは高三まで同じクラスだった。強力なインパクトのあるヤツだった。ぼくだけじゃなく、みんなにインパクトを与えたと思う。Kとは小学校のときはわりと距離を置いて付き合ってたんだけど、高校に入ってから意外に密接な関係が出てくる。(348頁)
小山田は小学校から高校までの12年間を、和光学園の生徒として過ごした。障害のある児童・生徒を普通学級に受け入れるこの学校の独自の体制については、改めて取り上げることにしたい。
ここで「K」として登場する児童は、数年後の「QJ」誌上に「沢田君」(仮名)として再登場し、小学校から高校にかけての関わりが改めて語られることになる。この1991年の「月刊カドカワ」誌上でも、Kは小・中・高すべての時期の回想で多少とも言及される唯一の人物であり、小山田の学校生活全体のなかで最も記憶に残った学友のひとりだったことが察せられる。
※1 例えばシリーズ『障害児教育にチャレンジ』の一冊として、『「出口」から考える知恵遅れの子どもの指導法』が出版されたのは1993年のことだ(辻行雄・岩里周英、明治図書出版)。また1991年刊の和光小学校編『共に学び育て子どもたち』(星林社)─のちに見る和光学園の「共同教育」を主題とする─には、「知恵遅れのA子ちゃん」への言及が見られる(262頁)。より一般的な用例として、1994年刊の堤清二・佐和隆光編『ポスト産業社会への提言─〈社会経済生産性本部・社会政策問題特別委員会報告書〉』(岩波ブックレット、No.358)から以下の文言を引いておく。「肢体不自由児や知恵遅れの子供を特殊学級に強制的に閉じこめるというのは、先進諸国に類例をみないむごい仕打ちといえよう」(59頁)
牛乳ビンで人を突然殴っていた「K」との“密接な関係”
では次に、彼の中学時代の日々のなかに、Kがどのように現れていたのかを見てみよう。
中学になると、人当たりが悪くなって。クラスに友達があまりいなくて、すぐにイジケるタイプに変わったんだよね。あまりしゃべらなくなった。休み時間は仲のいい友達とクラスを出て、他のクラスの仲のいい友達と遊ぶみたいな感じ。中学になると音楽がすごく好きになって、そういう話もできる人としか話さなくなった。
Kはね、体がでかくて、小学校のときは突然牛乳ビンで人を殴ったりしてたんだけど、中学になるとそういうことはしなくなった。大人になったみたいで。
同じクラスにひとり仲のいい子がいた。その子のお兄さんがパンク系が好きで〔…〕。(350頁)
まず確認しておくと、最初の引用中には「高三まで同じクラス」とあったけれども、のちの「QJ」での発言からすると、中学時代のふたりは別クラスだったようだ。とはいえ上記引用にあるように、小山田はそもそもわずかな例外を除き同クラスの友人を持たず、趣味を共有するクラス外の友人と行動をともにするようになっていた。中学時代のKは、別クラスであるばかりか音楽の話をするような仲でもなかったことから、このように遠くから観察するような語り口での言及にとどまっているのだろう。
しかし同じクラスに戻る高校時代の回想では、Kとの「密接な関係」の始まりとそれが彼にもたらした深い印象が具体的に語られる。以下、長くなるが該当部分全体を引用しよう。
高校になると、すごく仲良かったヤツが違うクラスになっちゃって、クラスに友達がいなくなっちゃった。そうしたら、Kが隣の席なの。アイウエオ順で、小山田の次がK(笑)。クラスにいるときは、Kとしか話さなかった。Kって特技がひとつだけあって、学校の全員の名簿を暗記してるの。バスの中で一緒になったとき、「あいつの住所は?」ってきくとペラペラペラって出てくるの。見たこともない下級生や上級生の電話番号とか兄弟もわかってる。
で、高校になるとみんな色気づいて下敷きの中にアイドルの写真とか入れてくるじゃん。Kも突然入れてきた。何かなと思って見たら、石川さゆりだった。「好きなの」って言ったら、「うん」。それから、Kは鼻炎だから、いつも鼻かんでるんだけど、ポケットティッシュだとすぐなくなっちゃう。だから購買部で箱のティッシュ買ってきて紐つけてあげた。それでKはいつも首から箱をぶら下げてた。
難しい漢字にもすごく詳しかった。暗記には異常に強かった。俺はいつもビクビクしてたの。ある日、突然キリッとした顔して真面目なこと言い出したら怖いなって。「本当は俺は……」って。だって下敷きに石川さゆりを入れてるのも、ギャグなのか本気なのかわからないじゃない。ギャグだとしたらすごいじゃない。で、ずっと観察してたんだけど、そういうことはなかった。だけど風の噂だと、Kがどこかで森鷗外の小説を読みながら歩いていたという話をきいた。(351頁)
和光中高の人気者・小山田の数少ない話し相手「K」
中学・高校時代の小山田は、後輩のひとりが「本人は嫌がりますけれど、やっぱり小山田さんは和光を引っ張っていた」と証言するように紛れもない人気者だった一方(※2)、決して優等生ではなく、この「月刊カドカワ」の記事でも、高1の時点で和光大学への進学を諦めるほど遅刻・欠席が多かったことを認めている。
やがてフリッパーズ・ギターの活動をともにすることになる小沢健二とは、和光中で同学年だった時期にはさほど親しくなく、小沢が和光を離れ神奈川県立多摩高校に進学したのちに音楽を通して友人となったのだという。放課後に待ち合わせ、御茶ノ水の貸しレコード屋ジャニスで大量のレコードを借りてから、小沢宅に行ってそのまま泊まってしまうこともあった。「小沢は学校に行くの。ぼくは小沢の家で寝てたり(笑)」(同頁)
そんな高校時代の彼がそれでも学校に顔を出した際、クラスで唯一の、というのは誇張が過ぎるのだろうが、数少ない話し相手となったのがKだったということだ。先ほど引いた回想からは、この同級生が健常者とは別のやり方で発揮する知性を前にして、小山田が感じた驚きと賛嘆がよく伝わってくる。
隣席のKの鼻水の様子を気にかけながら、彼は今目に見えているものは見せかけにすぎないのかもしれないという意識に捉えられていた。もちろん、Kが実際に「森鷗外の小説を読みながら歩いていた」というわけではないだろう。重要なのは、小山田はこの知的障害のある生徒を、健常者と社会生活を共有することの困難な「弱者」というよりも、健常者とは別のチャンネルを通して世界と触れ合い、常識的な眼差しに映るものの一面性を思い知らせてくれる存在とみなし、ある意味では分け隔てなく、ある意味ではかすかな畏怖をもって付き合っていたのだろうということだ。
ふつうそのように見える/聞こえる、というときの「ふつう」を信用せず、思いがけないアプローチで世界に触れ直すことを可能にするこうした感覚が、コーネリアスの全音楽を─さらに言えばヴィジュアル面での探究を含めたアーティストとしての全冒険を─支えている。そのように考えるなら、あの遊び心に満ちた「思ってたんとちがう」をはじめとする『デザインあ』の中心スタッフとして、放送開始以来そのサウンドトラックを担ってきたのも当然だと言えるだろう。
さらに言えば、「弱者」への思いやりといった表面的な次元とは一線を画したところで障害者と関わりながら少年期を過ごしたように見える卓越したミュージシャン以上に、パラリンピックの幕開けに音楽を添えるのにふさわしい存在はそうはいないのでないかと思えなくもない─少なくとも、この「月刊カドカワ」の記事を読む限りでは。
※2 平林和史ほか『前略 小沢健二様』(太田出版、1996年、98頁)。和光学園で小山田(と小沢健二)の2年後輩だったライター平林和史の発言。荒川康伸─ロリポップ・ソニックからフリッパーズ・ギターの初期にかけドラムとして参加したのち、ポリスターレコードに入社した─とのやり取りの該当箇所をもう少し引いておこう。「─〔平林〕本人は嫌がりますけれど、やっぱり小山田さんは和光を引っ張っていたじゃないですか。やることなすことすべて流行ってしまう。/荒川 『小山田くん、最近なに聞いてんの?』『アメリカのハードコア』『エッ!』。それでみんなが『ワーッ』となって聞きはじめるでしょう。/─ファッションなんて特にそう。和光のなかだけでなく、ストリートも遅れてついてくる。『オリーブ』の街頭スナップに小山田さんが載ると、そのとき着ていた服がとつぜん流行りだしたり。/荒川 そうなんですよね。それ、僕もすごく思ってた」