この国は未だ羽生結弦を正当に評価していない…『阿修羅ちゃん』によって解き放たれた羽生結弦の「肉体の反乱」私たち”共犯者”と共に
羽生結弦という存在だからこそ語りうる、芸術史における「試論」
改めて、羽生結弦の手によるコレオグラフィー『阿修羅ちゃん』を語ろう。
言うなれば「試論」でもある。羽生結弦という存在だからこそ語りうる、芸術史における「試論」である。
唯一無二のジャンプを封印して、「エッジの極み」を存分に発揮したプログラムこそ『阿修羅ちゃん』であることは、拙筆『等身大の羽生結弦青年が溢れ出す『阿修羅ちゃん』にファンがやられてしまったワケ…純粋に最上級のエンタメとして楽しむ!』でも書いた。
羽生結弦は常に「フィギュアスケートたる必然性」を命題に
いや、封印したは余計か、羽生結弦のセルフコレオに、羽生結弦の創造する『阿修羅ちゃん』というプログラムには必要なかった、それだけだ。
何でも盛り込めば点数を嵩上げできると調和と美とを二の次にしたプログラムも散見される中、羽生結弦は常に「フィギュアスケートたる必然性」を命題としてきた。