しなやかな筋肉、隅々までやわらかく…羽生結弦「ダニー・ボーイ」に私たちは「歴史的美しさ」を感じ、体得した
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「ダニー・ボーイ」を私は「美術」と捉えたい
フィギュアスケートの美的価値が、一段階上がったように思う。
「美しいな」
美しい。本当に、美しい。
簡単に書くが、簡単ではない。美的価値とは社会の美意識と共鳴して高まる、歴史的な価値判断に拠るものだ。
羽生結弦「Danny Boy」(以下、「ダニー・ボーイ」)はフィギュアスケートのそうした美的価値を一段階上げた、私はそう確信している。
『羽生結弦 notte stellata 2024』における「ダニー・ボーイ」は、前述の「カルミナ・ブラーナ」ととともに「事件」であった。
羽生結弦が常に新プロプログラムでフィギュアスケートの、広く芸術における「事件」を起こすのは必然といえるが、この「ダニー・ボーイ」を私は「美術」と捉えたい。
なぜなら「ダニー・ボーイ」とは圧倒的な「美」のプログラムであったから。いや、羽生結弦という存在そのものが「美術」なのかもしれないが。
「男性だけど美しいな」
ここで語る「美」とは私たちの「美意識」との共鳴に他ならない。いや、これまでも羽生結弦のプログラムには「美」を感じてきた――、そういうことではなく、対象としての美ではない、主体としての「美」ということだ。鑑賞としての「美」と体現(あるいは体得)としての「美」というべきか。