絵にかいたような嫌な奴「優等生のチクリ魔」梶原景時が御家人66人に”超嫌われた”ワケ
俳優の小栗旬主演、三谷幸喜監督が贈るNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」(日曜後8・00)。7月17日放送の第27話タイトルは作品名と同じ「鎌倉殿と十三人」。予測不能エンターテインメントの核心に迫る、第2章の幕が上がる。いよいよ始まる13人のエピソードは、まるでビジネスパーソンの出世争いーー。
大の歴史好きを公言するお笑いタレントの松村邦洋さんは、「見どころは”御家人同士の血みどろサバイバル”。鎌倉時代は、カッコよく活躍してきた御家人たちがまるでトーナメント戦みたいに死んでいくんですよ」と熱く語る。
※本記事は、松村邦洋著『松村邦洋「鎌倉殿の13人」を語る』(プレジデント社)より抜粋・再編集したものです。
愛人略奪のご乱心…アホの2代目源頼家vsバカ真面目な比企能員、一族皆殺しの刑ー鎌倉殿の13人
“13人”をひとりも知らなくても面白い。要は「出世争いデスマッチ」
日本の歴史の中でボクが一番好きなのは鎌倉時代。鎌倉時代は学校で習った知識を覚えてる自信がないっていう方々にもですね、この『鎌倉殿の13人』をご覧になってぜひ、この時代の面白さ、エグさを堪能していただきたくてですね、一冊書かせていただきました。これを読んでいただければ、『鎌倉殿の13人』はグワグワッと何倍も面白くなりますよ。
鎌倉幕府の歴史って、御家人たちの生き残りのトーナメント戦みたいなものなんですよ。平家がいる間は一丸となってましたけどね。その共通の敵がいなくなっちゃったから、今度は内輪モメ開始ですよ。後々の戦国時代みたいに、「誰々が謀反を起こしますよ」とか「誰々が裏切りますよ」とかいうガセネタを流したり、挑発して怒らせて向かってきたところをツブしたり、領地を奪っていったりしましてね、ええ。2回戦、3回戦、ベスト8とか4とか。
『鎌倉殿の13人』の13人って、そもそもは頼朝が急死して、急きょ18歳で二代目将軍になった頼家が、あんまり勝手なことばかりするもんだから、それに歯止めをかけて、物事はみんなで話し合って決めましょう、っていうことにして1199年の4月に集まった、当時力のあった御家人たちのメンバーの数なんですよ。
ボクが思うに、13って、『七人の侍』の7とかノムさんの頃の阪神のF1セブンみたいな、何かこう、象徴的なもので、数字そのものに意味はあんまりないんじゃないかと思います。三谷さん、数字がお好きじゃないですか。『12人の優しい日本人』とか、あと『清須会議』みたいに会議だけの密室モノもお好きなんですよね。
これがその13人のメンツでしてね。年齢は合議制が決まった1199年の時のです。正直ですね、この人の名前を全部言える人って相当のツウですよ。
最初の脱落者、梶原景時。情報心理戦を勝ち抜いたサムライ
鎌倉の御家人たちのアウトレイジな生き残りトーナメント。この勝ち抜き戦はほんと、負けたら自分だけ左遷ですめばラッキーなほうで、最悪で家族や血のつながった人たちもみんな殺されちゃいます。しかも、何がそのきっかけになるかさえわかんないんですから。左遷っていえば会社や役所での異動くらいしか思い浮かばない今どきの生活からじゃ、想像できないくらいピリピリした毎日だったんじゃないですか。
頼朝が死んだ鎌倉で起こった御家人サバイバルで、まず最初に”脱落”したのが、梶原景時でしたね。
景時のエピソードでまず有名なのは、やっぱり石橋山。頼朝が伊豆で挙兵して最初の戦いですよ。平家本隊じゃなくて外注に過ぎなかった大庭景親の軍に、石橋山でコテンパンにやられ、頼朝たちはわずか6騎で倒れた木の洞穴に逃げ込むんですね。今の神奈川県の湯河原辺りらしいです。この時、景時は敵方の大庭軍のほうについて戦ってたんですけど、頼朝を探し出す山狩りをやってた時に、大庭景親に「ここがアヤシイ」と言われて探しに入った木の洞穴で、景時は頼朝を見つけちゃうんですよ。
もう終わりだ、と頼朝は自害しようとしたんですけど、景時は「お助けしましょう。もし戦に勝ったら、その時は私の事を忘れないでくださいね」みたいなことを言って、その場から立ち去るんですね。で、大庭には「中はコウモリしかいないですわ。あっちの山のほうがアヤシイ」。大庭が洞窟に入ろうとしたら、「オレを疑うのか。それでは男の意地が立たん。入ったらタダじゃすまんぞ」とドーカツまでするんですよ。
頼朝とは政子をめぐる恋敵だった伊東祐之が、「いるのかよ? そこに誰かいるのかよ!」と何度も怒鳴ってましたけど、大庭があきらめて立ち去ったので頼朝は九死に一生を得たわけですよ。
大好機到来。安定した大手からの転職を虎視淡々と目論み、成功
頼朝といっしょにいた側近に景時と仲がいいのがいて、「あれは何て奴だ?」「梶原平三景時です」つって。景時にとっては人生の一大転機だったわけですよね、この件は。
景時は何かしら頼朝に期待したからこそ、命がけで守ったんでしょうね。あの頃の伊豆や関東の豪族は、いちおう平氏側ってことにはしてるけど、恩賞もたいしてもらえないし、源氏でも平氏でもいいという、なんかこう、無党派層なんですよね。小早川秀秋じゃないけど、どっちについてもいいような。
「このまま給料変わんない平家の下にいるより、リスクあるけど給料10倍になるかもしれない源氏に乗ってみるか」っていう流れだったかもしれませんね。結局、私利私欲が動機だったと思いますけどね。
安定した大手テレビ局の平社員のまま家族を養うか、会社を辞めて、不安定だけど番組を任せてもらえるプロデューサーとして迎えられる中小に移るか、みたいなね。ここでどうするか、という部分はあったんじゃないですかね。これから時代が変わりそうだ、オレにも運が向いて実入りが増えるかもしれないから、こっちについていこう。そういう意味で残ったのが御家人たちだと思うんですよ。
景時のことで、特に知られてるのは義経との対立でしてね。義経の転落は、景時が頼朝にあれこれ吹き込んだから、っていうのが昔からの通説ですけど、なんせ相手は「天才・新庄」ですからね(笑)。普通の人じゃない発想をするから面白いんだけど、景時はたぶんそういうのに頭からダメ出しする秀才タイプなんですよ。
今でいったら、偏差値高いし口は達者だし、運動神経は抜群だし、都会派で音楽とか文学とかアートにも詳しいし、上司には可愛がられてる。でもやたら細かくて口うるさいなんていったら、もうね、絵に描いたようなイヤな奴じゃないですか。他の田舎武者的な御家人たちや義経のような荒くれとは、とてもじゃないけど合わなかったと思いますよ。自分でも気付かないうちに、すごい数の人たちから嫉妬を買いまくってたんじゃないですかね。
同僚の御家人66人に嫌われる。嫉妬だけを買う、人徳なき優等生の最期
結局、頼朝が死んで頼家にも一時頼られたものの、景時は一気に追い出されます。他の御家人からは相当恨まれてますよね。2代目の座に就いた頼家が、早々と権限を取り上げられて13人の合議制になって、景時もその一人に収まるんですけど、頼家と御家人たちがしっくりいかずに不祥事が続きましてね、それを御家人の一人の結城朝光が嘆くんですよ。
「忠義心のある家臣は一人の主君にしか仕えない。頼朝公が亡くなって出家しようかとも思い悩んだが、頼朝公の御遺言でそれができなかった。それが今となっては残念だ」と言ってね。これ、確かに頼朝の言う事は聞いたけど、頼家の言う事は聞けない、と言ってるように聞こえますけど、景時はこれを頼家に言いつけて、まだ30歳かそこらの朝光に対してペナルティを与えるように勧めるんですね。
これに怒ったんですよ、他の御家人たちが。怒って、何と和田義盛を筆頭に66人分の連判状を頼家に提出して、景時を追い出すよう要求するんですよね。頼家がその連判状を景時に渡すんですよ。景時もショックだったでしょうけど、言い訳はせずに相模の国の自分の領地まで引っ込みましたけどね。
一度は鎌倉に戻るものの、やっぱり御家人たちが景時追放令を出して、義盛・義村が鎌倉にあった景時の館をぶっ壊すんですよね。景時が一族を率いて京都に上洛しようと相模の国を出たところで、駿河の国の清見関っていうところで、かつて石橋山の戦いで、景時と同じく大庭軍にいながらひそかに頼朝をバックアップしていた飯田家義っていう武士と鉢合わせしましてね、長男の景季、次男の景高、三男の景茂が戦死、景時は自害。61歳でした。
優等生で有能で、他人のいろんなことがいちいち目について許せなくて、いろんなことを頼朝に讒言(ざんげん)するんだけど、主の頼朝が死ぬとこう、居づらくなるんですよね。三成にとっての秀吉みたいに、かばってくれる人がいなくなるから。担任に好かれる学級委員がクラスメイトに嫌われるとか、社長が可愛がってた社員が、社長が引退してから「あいつ、社長のアレだからよ」と言われるようになる、みたいなね。
森田 伸=イラストレーション
松村邦洋著『松村邦洋「鎌倉殿の13人」を語る』(プレジデント社)