なぜ多浪生が”優等生”を演じだしたら偏差値35→70に爆増したのか「それでも僕は東大に合格したかった」第2話
ほぼすべて、現役東大生作家である西岡壱誠(にしおか・いっせい)さん本人が実際に体験したリアルなストーリーを小説化。偏差値35から東大受験に挑むも、現役・一浪と、2年連続で不合格。崖っぷちの状況で開発した「独学術」で偏差値70、東大模試で全国4位になり、3度目の受験に挑む。孤独な闘いを続けてきた主人公の「僕」が気づいた、合格発表までのカウントダウンをお届けする。(第2回/全3回)
※本記事は、西岡壱誠著『それでも僕は東大に合格したかった』(新潮社)より抜粋・再編集したものです。
第1回:偏差値35ド底辺、2年連続不合格の崖っぷち「それでも僕は東大に合格したかった」第1話
第3回:東大合格者が守った3カ条。数字にこだわる、志望校公言、そして…「それでも僕は東大に合格したかった」第3話
勉強ができる、人に優しい、努力家…『東大に合格しそうな』人を演じろ
「モテろっていうのは流石に冗談だとして」
やっぱり冗談だったのかよ、と思いつつ、僕は師匠の話を聞く。
「いいか西岡。モテるくらいに、優等生になれ。これから東大合格まで、お前は優等生を演じ続けろ」
師匠は言った。
「優等生、ですか」
いつものようにたった2人の教室。師匠は教壇に立って、僕にそんな話をしてくれた。
「勉強ができて、人に優しくて、努力家で、『東大に合格しそうな』人格を演じるんだ」
僕は、はあ、と気の抜けた返事をする。師匠の言うことは大体全部やってみようと決めているのだが、いつもと同じように、今回もあんまり意味のわからない指令だなと思った。
「『演じる』んですか? そういう奴になれ、ということではないんですね?」
僕は聞いた。ちゃんと勉強しろとか努力しろとか、そういうことではなく、他人にそう思われるようになれ、というのは変な話だったからだ。
「ああ、そうだ」
だがしかし、師匠は即座に肯定した。他人から思われるだけでいい、と言うのである。
「なんでですか?」
「だってお前、そういう人間じゃないじゃん。頭がいいわけでも、努力家なわけでもない。全く優等生ではないじゃんか」
そりゃその通りだけど、反論はできないけれど、と頭を掻(か)く。
「いいか西岡。この世のすべての人間は、演技をしているんだ」
師匠は不意に、真面目に語り出した。
「大人は大人になったように振る舞うし、子供は子供であることを望まれてそのように振る舞う。上の立場になったら偉そうに振る舞うことを求められ、下の立場の人はそれを敬うようなフリをする」
「そういうもんなんですか?」
そういう人もいるかもしれないけど、大人はきちんと中身まで大人で、子供は中身まで子供なんじゃないか、と思う。
「そういうもんだよ」
本当にそうなのかな。
スタンフォード大学が行った、実験6日目で打ち切りになったヤバすぎる “心理学” 実験
「スタンフォード監獄実験、と呼ばれる実験がある」
師匠はまた突然黒板の方に向かうと、そんな言葉を書いた。
「これは、心理学の実験だ」
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「実験参加者を募り、参加者を二つのグループに分ける」
「一つは看守側。もう一つは囚人側。疑似的な監獄を作るわけだ」
「そこでこの二つのグループに共同生活をさせ、看守側は看守の、囚人側は囚人の演技をしてもらう」
「看守側は看守の服装を着て、囚人側はもちろん囚人服」
「さらに囚人を実際にパトカーに乗せるところ、監獄に入れるところまでやった」
「その上で、2週間の共同生活をさせた。看守に命令させ、囚人にはそれを聞き入れさせた」
「……もちろんこれはただの実験だ。実際にこの二つのグループに上下関係はない」
「実際、始めてから1日は、どちらも困惑している様子だったそうだ」
「だが、実験を進めるにつれて、積極的に参加者は看守は看守の、囚人は囚人のフリをするようになった」
「看守は囚人に無理な命令をしたり、横柄な態度を取ったり、時には暴力的な行為すら取るようになってしまった」
「結局、2週間を予定していた実験は、6日間で打ち切りとなった。看守側はそれに対して『話が違う!』と怒り出したそうだ」
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「この実験から何がわかるか。それは、人間は『そう振る舞っているうちに、本当にそういう人間になる』ということだ」
「本来の人格とか、個性とか、関係なく、演技している通りの人間になってしまうのが、人間なんだ」
「恐ろしい実験ですね」
人間が本来の性格ではなくなってしまう。僕は本気で怖いと思った。
「だろ? だが人間は、こういう性質をもっている生き物なんだよ」
師匠はさらに話を続けた。
「人間は、『人の間』と書く。『間』というのは、周りの目線だ。その人がどういう人間かよりも、周りがその人をどのように見るのかの方が、実は重要なのさ」
この話には抵抗感がある。本当の自分より、周りが思う自分の方が重要だなんて。
「この実験の面白いところは」
師匠の声が、僕の思考を一瞬止めた。
「実際に、やってみせたということだ。命令させるだけじゃなくて、行動させた」
「行動?」
そうだ、と師匠は首を大きく縦に振った。
「人間は、どう思ったかより、どう行動したかの方が重要だ。何を考えていても、その行動を取った時点で、そういう人間になる」
「例えば、善行をした人間は、みんな善者だってことですかね」
「そう、よくわかってるじゃないか。善行をする人間は善者だ。その心の中で何を思っていたとしても、いい行いをしているのであれば、それはどんな人間であれ、偽善者ではない。それと同じように、看守の行動を取らせたら、看守になるんだ。それがどんな人間であれ、な」
中身スカスカでも “優等生” の演技を磨けば、いつかは東大生になれる理論
まあ、善者と偽善者の話はわからなくはない。確かにその二つは、見分けがつかない。だが、本当にそういうものなのだろうか?
「前に伝統の話をしたよな? 伝統を疑わない奴は、猿だ。『前もそうだったから』という理由だけでその伝統や環境を疑わずにいる、猿と同じような奴がこの社会にはたくさんいる」
「身をもって、体験しましたよ」
「だが、奴等だって本当は、その伝統や環境が疑わしいことだって知っているんだ」
「そうなんですか?」
「知っているけれど、逆らったら面倒臭い。他の猿から攻撃される。だから納得したフリをする。肯定したフリをする。猿の真似をするんだ」
「でも、本当はその人たちは、猿ではないんですよね?」
疑わしいと思っているということは、少なくとも、猿ではないのではないか。
「いいや、奴等は猿だ。最初は猿の真似をしていただけだった。でも、猿の真似をするうちに、自分が猿だったのか人間だったのかなんてわからなくなるんだ。わからなくなって、誰かのことを攻撃しだす」
師匠は笑った。笑ったが、それは楽しそうな笑いではなく、苦しそうな笑いだった。
「人間は、演技をしているうちに、演技をしているという事実を忘れる。だからあんなに『猿』が多いのさ。猿の大半は、そう演技をしているうちにそうなってしまった人間でしかないのさ」
確かに納得できる話ではある。明らかにおかしいことでも、「周りがそう言っているから」という理由で、疑わずにいることもあるのだと思う。
「だから、演技をすればいい、ってことですか?」
優等生の演技を。東大生になれる人間の演技を。中身なんて関係ない。外見を取り繕えば、いつかはそうなれると言いたいのだろうか。
「そうだ」