「人類の文化」としてのスポーツにおける今世紀最高の20人、それは「挑戦」の20人でもある…そこに羽生結弦がいることの「必然」
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メディアの多くは、いや日本人の多くもまた、この価値をわかっていなかった
いろいろ書いたが、羽生結弦という存在を語る上ではいろいろ書かざるをえない。
その存在はスポーツだけでなく文化芸術、歴史的な側面から捉えなければ価値を把握できない。
ただの数字だけではない、ただの成績だけではない、どちらも素晴らしいことだが、それは大きな歴史の中の結果に過ぎない。
結果だけではない何か――時代の子として、歴史の人としての歩みと、後世に残り得るべき明確な評価こそ、国際スポーツプレス協会(以下、AIPS)による今世紀最優秀アスリート20人への選出だと確信する。
それでは何が「数字だけではない」「結果だけではない」のか。同じく選ばれた偉大なアスリートを紐解き、これから羽生結弦という存在の歴史的価値の再定義、考察を試みる。
私が先に書いた通り、メディアの多くは、いや日本人の多くもまた、この価値をわかっていなかった。だからこその、スルーだった。これはフィギュアスケートに限らない、日本のメディアを中心としたスポーツ文化および芸術文化、そして歴史に対する軽視があるように思う。
対外的にそれをよくわかっている外務省がいち早く反応したのは、そうしたスポーツ文化に対する芸術的、歴史的な捉え方が組織として先進的であったからに他ならない。「世界」を知っていれば、当然の話だ。
日本の「お国のために勝つべき」「勝ち負けがすべて」という文化は以前に比べれば薄まってきたが、1990年代までの日本のスポーツがそうであったことは、オリンピックなどの国際大会はもちろん「優勝劣敗」「勝利至上主義」「しごき体罰いじめ制裁」など、いわゆる「部活中に水を飲んだら鉄拳制裁」世代にはわかる話だろう。負けて日本国民に泣いて謝らなければならないアスリートなど一部の独裁国家と日本くらいだ。
日本人選手はなぜ謝罪する?
『「なぜ日本人は銀メダルでも謝罪するのか」と米紙が首をかしげる』
クーリエ・ジャポン、2021年
『銀メダルなのに謝る日本。県2位の賞状、監督に破られた学生アスリートが思うこと』ハフポスト、2021年
『なぜ日本人選手は「負けたら謝る」のか? 誹謗中傷が“選手の本音”を奪う憂慮』リアルスポーツ、2022年
『五輪選手が謝る日本 言語学で分析すると SNS世論の影響は』
朝日新聞・2022年
『「情けない姿を」「金メダルを取れなくてごめんなさい」日本人選手はなぜ謝罪する?』日刊スポーツ・2024年