羽生結弦の一礼「幸福は見た目にも美しいものである」羽生結弦と共に泣き、喜んだ私たち、能登へ眼差しを…『羽生結弦をめぐるプロポ』「礼」(3)
目次
7.礼(3)――幸福、その美しいもの
「絶えず正しき作法を修むることにより、人の身体すべての部分及び機能に完全なる秩序を生じ、身体と環境とが完く調和して肉体に対する精神の支配を表現するに至る」※1
新渡戸の言葉はまったく羽生結弦という存在とその礼儀の正しさを言い当てている。礼儀も他者を魅了する。私が羽生結弦の一礼する姿が好きなように。
羽生結弦の礼儀は人のみにとどまらない。万象に対しての礼もまた、彼の感受性の賜物である。
たとえば6分間練習すらそうだ。羽生結弦にとっての6分間練習はリンクとの対話である。2019年の世界選手権、これは語録にも収録されているので史実の資料として引くが、フリーの演技を終えて羽生結弦は「ありがとう大好きだ!」「跳ばしてくれてありがとう」と思ったと語っている。※2
私はこのエピソードもとても好きだ。「道」とは人に対してだけでなくその道具や場所、森羅万象に対しての感謝である。万物に神を見る、万物を慈しむ日本的アニミズムの原点でもある。それはプロアスリート宣言後も彼の単独公演に受け継がれている。
なるほどこうした類まれな感性(超人的な意味における「霊性」と言うべきか)こそが『SEIMEI』や『天と地と』『あの夏へ』などの「日本人的霊性」(思想家、鈴木大拙の造語)の顕現だったように思う。
そして、こうした真実と誠実、仁愛と謙遜ゆえの羽生結弦という存在を支える「礼儀」は利他の精神とその行為にもつながっている。
礼が羽生結弦という存在を作り、羽生結弦という存在が礼を作る。その先にプロフィギュアスケーターとしての「求道」が存在し、私たちはそれらによって誕生した珠玉の作品群と見え、故に幸福にある。
羽生結弦はそれを美しい心のままに、利他のままに成し遂げる。繰り返しとなるがこうした人を「偉人」と呼ぶ。
その幸福はフィギュアスケートに限らない場所にも行き渡る、それこそこれも繰り返しとなるが芸術における「社会性」の発露である。震災に苦しむ人々にもまた、届く。それが決して茶番や芝居でないこともまた、心ある人にはわかる。そこに「真実と誠実」があるから。
これまでの羽生結弦と共にある私たちのことだ
「礼の吾人に要求するところは、泣く者と共に泣き、喜ぶ者と共に喜ぶことである」※3
この新渡戸の言葉はまさに羽生結弦のことだ。これまでの羽生結弦と共にある私たちのことだ。多くの羽生結弦と共に泣き、喜んだ私たちのことだ。この私たちの中にはもちろん、震災や疫禍に苛まれた人々も入っている。