いつまでも「たられば」を語る人は醜い…あの日、勝者は羽生結弦。その事実しかない。その史実しかない。

羽生結弦は羽生結弦の最高を滑る。アクシデントも無常の現実と対峙するのみ、ただ「自分ができることをやろう」だった。
勝ち負けすら越えた美意識――そこに醜い「たられば」など不要。
そう、「たられば」をいつまでも語る人は醜い。そういう人は、醜い人だ。
もちろん日常の他愛もない「たられば」は誰にもある。ああ、先にお昼を食べておけばよかったとか、宿題やっとけばよかったとか。逆に、ゲームしなきゃよかったとか、二度寝しなきゃよかったとか。
こうした心理学で言うところの加法、減法は極めて個人的な生活の中の自己完結した内面心理の話であり、これはこれで無意識に心のバランスを整えるための健康的な思考である。まったく問題ない。
しかし、そうではない「たられば」もある。とくに史実に関すること、対象を貶めることにもなりかねない比較史における重大な「たられば」である。これはたいてい不健康で、史実に対して不適当な意をとなえる行為となり、ひいては事実を歪める結果となりかねない。
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芸術的評価の介在する採点競技には「たられば」がつきもの
その過ちの代表的なものは戦争の「たられば」だろう。「争い」「競い」の結果という勝敗、優劣の事実である。例えば日本が太平洋戦争で勝っていたらとか、ミッドウェー海戦で失敗しなければ――まあ、個々のよくある戦争の「たられば」は措くが、歴史修正主義者が持ち出す手口である。日本は敗けた、それだけのことである。その事実は変えようがない。
戦争は「争い」だが「競い」となるとスポーツにも「たられば」論法は入り込む。先に書いた札幌五輪女子シングル、ベアトリクス・シューバとジャネット・リンの話、もちろんジャネットは「たられば」とは無縁の偉大なスケーターであることは書いた。周囲が「たられば」を持ち出して贔屓の引き倒しをしようとしただけのことである。
とくに芸術的評価の介在する採点競技には「たられば」がつきものである。ひとつの失敗で大きく順位が変わってしまう。どのスポーツにも体調がどうとか、年齢がどうとかの「たられば」はあるにせよ、他者の芸術的評価という印象の介在する採点競技は「たられば」のつけ入る隙の多い分「不健康」な状態に置かれ易い。
どんなに基準をシステム化しても人間の心理には限界がある。一番足の速い人が金、一番遠くに跳んだ人が金といったシンプルな勝敗基準にはなりにくい。
結果は結果、事実は事実
だからこそ結果は結果、事実は事実であり、決して「たられば」を持ち出してはならない。それが競技に対する敬意であり、ひいては勝者に対する、敗者に対する敬意にもつながる。多くの偉大な、いや心あるアスリートすべてはそれを知っている。
クリスティー・ヤマグチと伊藤みどりの対決は日本人ならよく知るところだが、1992アルベールビル五輪で勝ったのはクリスティーだ。芸術かスポーツかの論争はともかくクリスティーが勝った。伊藤みどりもまたトリプルアクセルを跳んでみせた。