私たちは羽生結弦と共に…「人のために一生懸命、綺麗な事をする人は綺麗な人だ」震災と豪雨の能登へ、ふたたび
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能登を「忘れてほしくない」と呼び起こそうとした羽生結弦
あの日、羽生結弦とみんなが声を上げたこと、みんなの心が集ったこと。
世界中が羽生結弦と共に、能登にあったことは、決して無駄なんかじゃなかった。綺麗な事でも人は救える。綺麗な人とは、そういう人だ。
結果で言うんじゃなく、正直なところ多くの人々の記憶からも消えかけていた能登を「忘れてほしくない」と呼び起こそうとした羽生結弦という存在の「挑戦」こそが能登に世界中の目を集めた。
それでも――チャリティー演技会のあと、豪雨があったことは、辛い現実だ。
それでも来り返し、何度でも声を上げる
こういう現実は本当に哀しく、そして難しい。その世界に目を向ければ、例えばアフリカを救うためのチャリティーコンサートの最中にゲリラが村を襲うことなど珍しくもない。村が焼かれ、子どもが売られ――いまもそれは世界のどこかで確かに、起きている。
震災や豪雨といった天変地異もそうだ。人間が対処するには限界がある。それこそ、どうしようもない現実がある。
それでも来り返し、何度でも声を上げる。
11月3日に亡くなったクインシー・ジョーンズ、彼のプロデュースした1985年のチャリティーソング『ウィー・アー・ザ・ワールド』は45人の世界的アーティストが参加、2000万枚以上の大ヒットを記録した。
同じく1985年にアフリカの飢餓を救うために開催されたチャリティーコンサート『ライヴエイド』もまた、伝説としていまも語り継がれている。
チャリティーは綺麗事で、無駄なのか
それでも戦争は絶えないし、そのアフリカひとつとってもソマリアやリビア、南スーダンを始め、多くの地域の人たちがまともに暮らせないほどに貧困と飢餓、命の危険に今現在もさらされている。
あるいはウクライナ、イエメン、そしてパレスチナ・ガザ――だからといって、そうしたチャリティーは綺麗事で、無駄なのか。
いや、そんなことはない。
直接的な解決ができなくとも、人は自分の出来る限りのことで人を助けなければならない。人は人を見捨ててはならない。自助努力や自己責任はそれで救われる個はあっても、それは人を救わない。全部は無理だ、それでも――人が人である限り、そうあらねばならない。
これすべて、羽生結弦の姿勢そのものだ。羽生結弦の生き様(いきよう)そのものだ。
何度も書いたことだが、羽生結弦がそれらをする必要はない。競技者としての歴史的な偉業の数々、成功しかないアイスショウ、それだけに邁進すればいい――そういう人もまた否定はしない、しかし羽生結弦はそうでない、というだけだ。
『ウィー・アー・ザ・ワールド』の収録にマイケル・ジャクソンやボブ・ディランが時間を割く必要はないし、『ライヴエイド』でクイーンがあの伝説のパフォーマンスをノーギャラでする必要はない。それでも彼らは「人間を見捨てない」と声を上げた。彼らの一番大切な、歌によって。
一番大切なフィギュアスケートで声を上げる
羽生結弦もそうだ。一番大切なフィギュアスケートで声を上げる。