羽生結弦は「荒稼ぎ」これは誹謗中傷だ。その存在価値に世界中が正当な対価を払う「あたりまえ」
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これは誹謗中傷である。書き手の名前もない
一生懸命、仕事で稼いでなにが悪いのか。
まして「荒稼ぎ」呼ばわりである。
荒稼ぎとは数冊の辞書をたどれば「手段を選ばず金を稼ぐこと」「強引な方法で不当に金品を奪うこと」「乱暴な方法を使って金銭を稼ぐこと」「強盗や追いはぎなど、その者」とある。
ひどい話である。羽生結弦の仕事は「荒稼ぎ」だそうだ。明白な誹謗中傷である。記事には書き手の名前もない、匿名掲示板レベルである。
中世キリスト教圏の「稼ぐことは悪」とされた時代について書いたが、近代に入ると「功利主義」(現代では「公益主義」とも)がもっと世界を変えた。「最大多数の最大幸福」という言葉を社会科の授業で習ったと思う。
自分のために働き、稼ぐことが家族を豊かにする、自分が豊かになれば消費によって他者に利益をもたらす、自分が経営して事業を拡大すれば従業員を雇うことで生活の安定する人が増える。その利益を企業として社会に還元すればより大きな社会への貢献となる――この仕組みが「自由主義」である。
これも現代ではあたりまえの話だが、「自分」や「社会」が「神のため」だった時代があった。それを決定的に変えたのが功利主義であり、宗教改革が近代に向けた端緒なら、自由主義は近代の幕開けであった。
羽生結弦という存在の価値に対価を払う者が大勢いる
ちなみにこの「功利主義」という言葉が字面や「高利貸」などの「こうり」と読みが同じことからネガティブなイメージを持つ人もいるが、本来は個人の幸福と他者の幸福から社会全体の幸福につなげる利他の経済思想である。
そもそも羽生結弦という存在のどこが「荒稼ぎ」だというのか。
羽生結弦の価値は歴史的にも稀有であることは言うまでもないだろう。自由主義において稀有な存在には市場価値が生まれる。つまり羽生結弦という存在の価値に対価を払う者が大勢いる「あたりまえ」があるということだ。それは自由主義である限り自由に自身が選択したものである。中世のように教会から「天国に行けなくなる」と脅されたわけでもない。
〈知覚、判断、識別する感情、心的活動、さらに進んで道徳的選択にいたる人間的諸機能は、自ら選択を行うことによってのみ錬磨される〉※J.S.ミル『自由論』