超正論!『努力論』をぶちかまして炎上したビリギャル、心境を吐露「私はそもそも努力の人ではないに」…偏差値30からの慶應大合格の裏側

偏差値30からの慶應大合格、30歳を過ぎてからのコロンビア教育大学院進学など、困難な挑戦を繰り返してきた“ビリギャル”ことさやか氏。一方でさやか氏は、「私は努力の人でも何でもない。むしろ、努力はしたくない」と話す。日本人が思い描きがちな“努力”や“頑張り”に対する誤解について、さやか氏が説く。短期連載全2回の第1回。
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「努力したくない人」で炎上
2024年3月、私のツイートがXで炎上しました。それが次のツイートです。
「努力出来る人と出来ない人がいるんだよ」と言う人いるけど、それって「努力出来ない人」なんじゃなくて、ただ「努力したくない人」なだけなんじゃないかなと思うんだけど、どうかしら。 |
このツイートにはたくさんのご批判が寄せられ、私自身、自分の言葉の足りなさや軽率さを猛反省しました。「努力したくても色んな理由で出来ない人もいる」というようなご意見を多くの方から頂きました。ただ、私のこのツイートの裏には「そもそもそんなに高いレベルでみんなが努力ってしないといけないんだっけ?」という疑問がありました。私自身が、そんなに努力することが好きじゃないからです。ずっと努力を押し付けられるのが、すごく窮屈だったからです。
私たち日本人は「努力する」「頑張る」という言葉を頻繁に使います。この努力とは、「モチベーションや意図を持って何らかの達成を目指して行動を起こす」ことを指します。これは、みなさんが日常の中で日々やっていることのはずです。努力って別に、「一年で偏差値を40上げて慶應大学に合格するために1日15時間勉強する!」みたいなことだけを指す言葉ではないはずです。私たちは毎日、何かしら頑張っています。
どのくらいの程度で頑張るかは、人それぞれで違っていいはず、というよりむしろ違うべきものです。それなのにいまの日本では、他人から「もっと頑張れ!」と努力の押し売りをされたり、「あの人みたいに頑張れていない自分」に自己嫌悪を抱いて生きていたりと、なんだか窮屈です。
どのくらい努力して、なにを成し遂げようとするのかは本人の選択であり、自由です。「あの人がものすごく頑張っているから私も頑張ろう」と思えるならいいですが、「あの人が頑張っているから」といって、あなたも同じだけ頑張らなくてはいけない理由はどこにもありません。
だから「努力出来ない人」というのは、「努力する能力がない」ではなく、「ただそのときにその程度までの努力はしない選択をした人」であるだけだと私は思っています。「努力が出来ない人」なんて、この世にいない。私はそう信じています。正しい動機づけと効果的な戦略、最適化された環境さえ揃えば、誰だって努力はできます。
私は「努力の人」ではない
慶應大とコロンビア教育大学院に合格したことで、あたかも私が“努力の天才”であるかのように見られることが増えたんですが、実は全然そんなことはないんです。正直に言いますが、習慣化に成功することなんてめったにないくらい三日坊主の常習犯ですし、できればずっとベッドで動画見て過ごしたいなあ、なんて思っているくらい、意思も弱く怠惰な人間です。