「彼は3万枚のチケットを完売させる人気者」ロシア番組『フィギュアスケートショーは衰退しているか?』羽生結弦についての言及とその「わかってない」感(前)

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何度も書くが興行は残酷だ
何もわかってないな、と思う。
それだけで金なんか払うものか。
日々の生活から金を出すものか。
多く回ってるだけで客が入るわけじゃない。
多くの記録を残しただけで客が入るわけじゃない。
なんとか賞やなんとかメダルだけで客が入るわけじゃない。
メディアでたくさん宣伝されただけで客が入るわけじゃない。
多く回る、賞やメダル、それは凄いことだ。とてつもなく凄い。むしろ王者には大前提である。あたりまえの話だ。
しかし、それだけでは、いやすべてを兼ね備えていたとしても興行は難しいのだ。容姿に至っては取っ掛かりでしかない。興行の成功とは別問題だ。
そう、何度も書くが興行は残酷だ。超一流の監督や大スター、空前の予算と上映館数を抑えても爆死する映画が数多あるように、それがあるから、いや全部あるから客が入るとは限らない。安易に(そう「安易」に)過去の実績や手蔓に頼っていると失敗する。
数字は明確だ。たとえ数字を誤魔化したとしても実際の売り上げと乖離していれば興行は成り立たない。ときに競技の数字を誤魔化してもそのまま通ってしまうのと違い、興行の数字は明確だ。明確に優勝劣敗が決まる。
ジャンルは違えど当事者としてたくさん見てきたし、フィギュアスケートもまたいち消費者としてそれを見ている。個別の例は挙げないが多くも知るところだろう。20世紀後半に隆盛を極めた北米市場は当時と比べれば――もはやアイスショーの墓場である。
羽生結弦と共にある人々ならわかる話だろうがこうした事実、明白な結果にわけのわからない理屈を並べる人たちがいる。自分たちの都合のいいように捻じ曲げて自分の「推し」(便宜上使う)の結果を正視しないどころか陰湿に当てこする。
それでも、興行の結果は明白だ。数字は動かない。羽生結弦の興行に成功しかない、という事実も。
繰り返すが冒頭の前提は凄いことだ、誰もが実現できるわけでもない。称賛されるべき、そんなことは当たり前の話だ。
しかし、興行はそれと別だ。それなのにまったく、何もわかってないな、と思う。