日本フィギュアスケート発祥の地…羽生結弦の原点を、想う。仙台市アリーナ開館記念イベント「The First Skate」エッセイ(1)

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羽生結弦少年の「気づき」

7月5日、仙台。
いまこそ原点を、想う。
〈でも存分に滑れないことがきっかけになって、スケート、やっぱり楽しいんだなあって……本当に思いだしたのは、そのころだったんです。やっと気がついたんですよ、やっぱり自分にはスケートがないとダメなんだ、ということに〉(※1)
もう20年以上も前、初出場だった全日本ノービスBで優勝、当時9歳の羽生結弦少年の「気づき」だった。
エフゲニー・プルシェンコに憧れ、ウルトラマンガイアに憧れ、野球も大好きだからプロ野球選手もいいな、なんて考えたこともあった羽生結弦少年。
〈スケートを始めて6年目。僕の通っていたリンクが、つぶれてしまった。僕らは急に練習場所がなくなってしまって、スケートを続けるには今までよりも遠いところにある他のリンクに通わなくちゃいけなくなりました〉(※2)
〈同じクラブの選手には、それをきっかけにやめちゃった子もいたんです。男の子が、3人くらいやめていったなあ〉(※3)
2004年末に〈僕の通っていたリンク〉だったコナミスポーツクラブ泉・スケートリンクが経営難で閉鎖となった。羽生結弦と共にある人々の多くは私と同様、古くから大なり小なりフィギュアスケート全般に関心を持ってきた方々が多いと思われるのでわかってもらえると思うのだが、2000年前後のこの国のフィギュアスケート界、とくに男子シングルは厳しい状況にあった。バブル崩壊と山一ショックを始めとする金融崩壊によってフィギュアスケートのみならず、スポーツ界における実業団の撤退も相次いだころだ。