花いっぱいの春が、来る。羽生結弦『REALIVE』発表。「二度と同じ瞬間などないプログラムたち」ーー「いま」「ここ」の感動、新たに。(2)

目次
過酷な興行
興行の勇気。
『notte stellata』という勇気。
『REALIVE』という勇気。
私はかつて羽生結弦のショウについて「勇気」と書いた。
これについては『羽生結弦の”勇気”の話をしよう。絶望と死神ばかりの世界…興行の世界で希望に手を伸ばす”勇気”の話を。『羽生結弦をめぐるプロポ』「勇気」』(2025年)に書いた。とくにヴァーツラフ・ニジンスキーの興行「セゾン・ニジンスキー」を挙げて、あれほどの天才でも興行面では厳しい(もちろんその時代ならではの体調不良といった運の悪さもあったのだが)ことがあったことを書いた。
〈人間である限り何があるかなんてわからない。身一つの仕事、羽生結弦という存在あっての仕事、ニジンスキーのように病気になったり、あるいは事故や怪我、どうにもならない天災に遭ったりするかもしれない。プロアスリート宣言後もこうしたプレッシャーを羽生結弦は率直に語っているが、まさしく競技会とは別の興行というプレッシャーたるや想像に余りある。いくらでも平易な道はあるはずなのに。興行とは、まさに水物ーー。安易な人が安易に思うよりお金を払って人に来ていただく、それも生活におおよそ関係のない娯楽で来てもらうというのは本当に大変なのだ。思えば、客演でも十分だろう。これも客演を軽んじているのでない。客演で呼ばれることもまた、その人の勇気の積み重ねの結果である。それが羽生結弦なら引く手あまたであることは言うまでもない。危険な興行に打って出なくても羽生結弦は十分に「食べていける」はずということだ。それでも羽生結弦は自分のやりたいことのために、多くの人々のためにも自身の公演が、興行が必要だった〉
ざっと私の言いたいことをまとめたが、そんな過酷な興行にもまた挑むのが羽生結弦という存在だ。
お金が入る、目立つ、好きなことができるーーそれは否定しない。というか、むしろプロには必要なものだ。物書きとするなら私だって、そればかりではないが、それはある。
それを否定するならアマチュアでいいように思う。お金はいらないが目立ちたい、お金はいらないが好きなことをしたい、これはアマチュアのほうがいい。
逆に、お金はいるが目立ちたくない、お金はいるが好きなことでなくていいならそれは職人だろう。決して明確に分かれるものではないが、主語が「エンタメ」とするならそういうことだ。
誤解しないで欲しいが主語は「仕事」ではない。主語は「エンタメ」でそのプロの「仕事」の話をしている。つまりプロアスリート、羽生結弦のことだ。