見えた日本経済V字回復!ありがとう安倍晋三 …「ノーパンしゃぶしゃぶ」から始まったデフレ、ついに打ち勝った
経済評論家の上念司氏は、「インフレとデフレは40年周期でやってきている。2020年からの40年間はインフレの時代」と分析する。「すぐにデフレがやって来る」と考える経営者らの思考が「甘い」と斬って捨てられる理由を、バブル崩壊後の日本の状況と照らし合わせて紹介する――。全4回中の2回目。
※本稿は上念司著『何をしなくとも勝手に復活する日本経済』(ビジネス社)から抜粋、編集したものです。
第1回:日本経済が「これから勝手に復活する」ワケ…馬鹿マスコミの謎悲観論を完全論破! コロナで日本人が貯めた50兆円に使い道
23%→7%のインフレは耐えられても、3%→-1%のデフレは耐えられない
世界的なインフレが始まる中、いよいよ日本もデフレを脱却し、インフレ時代に入る。これはコロナ禍における財政のバラマキ効果やロシア・ウクライナ戦争の影響もあるが、より大きな流れとして見ることもできる。
まず考えたいのが時代のトレンドだ。歴史的に見るとインフレとデフレは、一定の周期で交互に訪れている。まとめると1900年からデフレ時代が始まり、1940年以降はインフレ時代に入る。そして1980年をピークにインフレ率が下がりだし、そのままデフレの時代に入る。
いずれも40年周期で変わり、2020年からは新型コロナウイルスの感染拡大によって、世界はいっきにインフレモードになった。この40年周期は、現象面から見ただけで何の根拠もない。しかし、私のみならず多くのエコノミストがこの不思議な周期説に一定の説得力を感じている。
デフレからインフレへの転換は、冬から春になる時の三寒四温に似ているかもしれない。1940年から50年にかけての日本はまさに「寒の戻り」だった。1949年にドッジデフレを経験し、翌年朝鮮戦争勃発で株価が暴落したのが最後の冬日だった。
朝鮮戦争が終わるころには、株価は3倍以上に上がっていた。再び冬(デフレ)が来ると信じて現金を貯めこんだ人は大損し、リスクを取った人が報われた。
逆に、秋から冬に向かっていたのが1980年代だ。1980年代後半から始まったバブル景気は残暑のようなものだ。秋の夏日はあくまでも夏日であって、夏そのものではない。バブル景気を抑えるため、日銀は1989年に金融引き締めを始める。これはまるで、第1次オイルショック時のときと同じ手法で、それによって日本のインフレ率が下がっていく。
だがここで日銀は間違えた。第1次オイルショックのようなインフレ率23%の状態から7%まで下げるのと、1989年当時の3%からマイナス1%まで下げるのでは、経済に与える影響がまったく違うのだ。
人間の体にたとえると、わかりやすい。たとえば室温85度のサウナの中でも健康な人なら裸で15分程度は耐えられる。しかし、裸でマイナス5度の冷凍庫に置き去りにされたら15分も持たずに低体温症の症状が出るだろう。最悪の場合、死ぬかもしれない。
例えば、外気温が25度だった場合、85度のサウナは気温差60度、マイナス5度の冷凍庫は気温差30度だ。サウナの方が冷凍庫より2倍も気温差がある。しかし、サウナでは死なない人間が、冷凍庫では死ぬ可能性が高い。経済も全くこれと同じだ。
年率23%の狂乱物価が7%に収まった場合、その差は15%である。しかし、これはなぜか耐えられる。むしろ23%のインフレより7%のインフレの方が心地よい。ところが3%のインフレからマイナス1%のデフレになった場合、その差がわずか4%だが人間は耐えられないのだ。
「もう政府の言うことは聞かない」日銀の暴走
ここで日銀の罪をあらためて指摘したい。デフレ下において中央銀行には、物価目標を達成するための金融緩和が求められる。手段として一般的なのは民間銀行が保有する国債を大量に買うことだ。必要なら政府から直接買っても良い。
要は2013年以降、黒田東彦総裁が行ってきたことをやればよかったのだ。ところが、黒田総裁以前の日銀には「金融政策の目標を政府と共有する」という概念がなかった。これは1998年の日銀法改正が大きい。
それまで大蔵省の完全な子会社だった日銀は、改正で金融政策の独立性を持てるようになる。改正のきっかけは当時の大蔵省の「ノーパンしゃぶしゃぶ」をはじめとする接待スキャンダルだ。大蔵省の役人に対する大手銀行や証券会社による過剰な接待ぶりがマスコミで報じられ、汚職事件にまで発展した。
大蔵大臣と日銀総裁は辞任、大蔵省は解体されて財務省と金融庁に分かれた。これに伴い日銀も、中央銀行としての独立性を持てるようになった。このとき日銀は「独立性」を錯覚する。「もう政府の言うことは聞かなくていい」と考えるようになったのだ。結果として「インフレ率2%を維持するのに必要な貨幣量を供給する」という、本来の役割を無視するようになる。
日銀は独特の理論を持ち、インフレ退治には積極的だが、デフレを抑えることには消極的だ。そのため、すべてが後手に回った。それを14年間やり続け、「これはおかしい」と気づいた当時の安倍晋三氏が第2次安倍政権において日銀に黒田東彦氏を総裁として送り込み、ようやくデフレ退治に乗り出すのだ。
それぐらい役所というのは、一度決めたことを修正したがらない。いまでも日銀は根っこの部分では変わっていない。
確かに日銀法には「日本銀行の金融政策の目的は、物価の安定を図ること」としか書いていない。「インフレ率何%」などと具体的な数字は掲げられておらず、当時の白川方明総裁も「マイナス1%でも安定していれば『物価の安定』」などとうそぶいていた。
業を煮やした当時の安倍首相が次の総裁を黒田氏に決めると、任期満了を待たずに白川氏は辞めてしまった。まさに責任逃れである。
それでも2012年に第2次安倍内閣が誕生し、アベノミクスを始めたことで日本経済は何とか水面まで浮上する。インフレはギリギリプラス。水準的にはデフレではない状態を安倍首相と黒田総裁がつくった。
アベノミクスで採った金融政策は、欧米がリーマンショックの際に行ったことと同じだ。貨幣量を増やし、金融のエンジンを全開にふかす。これによりインフレ率がマイナスになるのを食い止め、デフレを回避した。
日銀が目標とするインフレ率は2%で、「アベノミクスは達成できなかった」という声もあるが、水面下から水面に浮上したことは非常に大きい。実際、500万人以上の雇用も新たに創出し、日本経済はどん底からV字回復したのだ。
そうした中で2020年にコロナショックが起こり、全世界がインフレモードに突入しだす。すでにアベノミクスによって、物価がマイナス圏を脱していた日本には追い風だ。もちろん、それはインフレ方向に吹いている。その風は40年止むことはないだろう。
バブル崩壊後にヒットした『ロマンスの神様』
日本の経営者には、いまのインフレは短期で終わり、またデフレに戻ると思っている人が多いが、その考えは甘すぎる。すでに述べたように過去のデフレ、インフレのサイクルもいっきに転換するのではなく、「三寒四温」のように行きつ戻りつを繰り返しながら変わっていった。
バブルの崩壊過程を思い出していただきたい。1990年1月には3万8000円台だった日経平均株価が、年末には2万3000円台にまで落ちた。91年には地価も頭打ちになり、本格的な下落が始まった。それでも多くの人が2、3年もすれば景気は回復すると思っていた。
広瀬香美さんの大ヒットソング『ロマンスの神様』の発売はいつだったか。CDが175万枚売れたこの曲の発売日は、1993年3月なのだ。
93年は私が社会人一年生だった年で、一部上場企業が、翌年の新卒内定者を軒並み半減させた年でもある。社会人一年生の私はリクルーターをしていたので、よく覚えている。私が内定を受けた前年の92年は内定者が90人いたが、93年は45人しかいなかった。
これは、私が勤めていた日本長期信用銀行だけの話だけではない。大学の弁論部時代の仲間の勤める伊藤忠商事も同様だった。当時の金融機関と商社を代表する2社が、内定者を半減したのだ。他の多くの企業も似たようなものだっただろう。いわゆる就職氷河期の始まりである。
つまり『ロマンスの神様』が大ヒットしたとき、日本はすでにバブルが崩壊していた。それなのに「リゾートで素敵な男性と出会いたい」といった、バブル全盛期のようなノリノリの歌がウケた。世の中の空気は、まだまだバブルだったのだ。
インフレ率も下がっていたのに、「来年は戻るよ」と誰もが楽観的だった。多くの人が現実に気づくのはいつかというと、日本長期信用銀行が経営破綻した1998年だ。バブル崩壊を1991年とすると、7年かけてようやく気づいたのだ。
今回のインフレも、2020年を始まりとすると、2027年頃まで気づかない人が多いのではないか?感度の鈍い人はようやくここで、「もうデフレには戻らない」と気づくのかもしれない。