ブランコ・ミラノビッチ「なぜ日本の中間層がこれから没落するのか」 2019年、誰がこんな未来を予測した
20年にわたり世界銀行の主任エコノミストを務め、所得分配と不平等に関する研究で世界的に知られているブランコ・ミラノビッチ氏。新型コロナウイルスやロシアによるウクライナ侵攻はグローバル化に動揺をもたらしたが、ミラノビッチ氏は「現在の状況は一時的なグローバル化の後退にすぎない」と述べる。私たちが認識すべき、世界の“不平等”とは――。
※本稿は『2035年の世界地図』(朝日新書)から抜粋・編集したものです。
2019年、誰が未来がこんなことになると予測できたか
――2020年初頭以来、新型コロナウイルスのパンデミックは、世界を根底から揺るがし、世界のほとんどの国の経済に打撃を与えてきました。さらに、2022年2月にはロシアがウクライナへの侵攻を開始し、世界中で深刻なエネルギー価格の高騰が起こっています。この困難な時代について、あなたの考えをお聞かせください。
私は、グローバルな不平等を研究しています。これは明らかに大きなテーマであり、現在の動向に大きな影響を受けています。問題は、現在の諸々の事態がまだまだ進行中である、ということです。
まずは、2020~2022年の間に起きた危機を3つに分けてみましょう。1つ目は、コロナ禍です。経済にとっても、病気にかかった人や亡くなった人にとっても、大きな危機であり、まだまだ続きそうです。
2つ目の危機は、米国と中国との間で、より深刻な貿易摩擦や競争が始まったことです。この競争は現在、政治の場でも深まっています。
そして、3つ目の大きな危機は、戦争です。つまり、ロシアのウクライナへの侵略です。このショックもまだまだ続きそうです。残念ながら、私たちは本当に、これらのとてつもないショックを抱えています。2019年に人々に尋ねたとして、3つとも予測できた人は誰もいなかった、と思います。
グローバル不平等の中の不確実な状況
そこで、グローバルな不平等への影響に目を向けると、そこでも非常に着目すべき結果が出ています。
ここで重要なのは各国の成長率です。たとえばインドでは、ある年は10%のマイナス成長で、別の年には9%のプラス成長でした。しかも、これは14億人の人口を抱える国で起こったことです。中国でのロックダウンは、中国だけでなく世界の不平等に深刻な影響を与えています。
そしてまた、(コロナ禍への対策として進められた)裕福な国の政府による非常に大規模な所得移転が、その国の不平等を減少させました。しかし、2020年に米国の不平等が減少したとしても、それ以降も続くとは限りません。はっきりとしたメッセージをお伝えできないのが申し訳ないのですが、私たちは、非常に矛盾した展開の中で、大変不確実な状況下に置かれているのです。
それでも世界は「グローバル化」に進む
――ロシアのウクライナ侵攻に直面して、グローバル化の中で進んできた経済統合が平和と自由を促進するのではなく、権威主義的支配者に利用される可能性があることを指摘している思想家が少なからずいます。私たちはこれまで思ってきたようなグローバル化の終焉を目の当たりにしているのでしょうか。それとも、これは一時的な後退に過ぎないのでしょうか。
私はやや楽観的です。つまり、私はこれが「一時的な後退」であると思っています。グローバル化の背後には、2つの基本的な力があります。1つ目は、技術的な変化です。まずは、技術革新とともに、グローバルな資金移動が可能になり、国境を越えたコミュニケーションが可能になったことです。そして、コロナ危機であらためて注目されているように、(オンラインで)グローバルな労働市場が可能であることも、人々は発見しました。これが1つ目の力です。
そして2つ目の力は、自己利益を追求しようとする力です。単純な例としては、同じ仕事をする人間を、国内よりもグローバルに雇った方がずっと安く済む、ということです。デメリットもありますが、2番目の利点は明らかです。これは、(比較優位の概念を唱えた)デビッド・リカードにまで遡れる、明らかなメリットです。
つまり、これは何も新しいことではありません。単に、より多くの物品やサービスに適用できるようになった、ということです。まさに、過去には存在せず、適用できなかったようなサービスです。
権威主義体制は非常に脆弱でもあります
「権威主義的な政権がグローバル化を利用する可能性がある」という意見は大変興味深いことではありますが、権威主義体制は非常に脆弱でもあります。
現在の制裁下にあるロシアの状況を見て、過去と比較すると、アフガニスタン侵攻の際に当時のソ連に対して制裁が科されたときを思い出します。ただ、当時の制裁は本当に最小限の影響しかありませんでした。それは、ソ連が孤立しており、世界経済に統合されていなかったからです。そして、世界経済自体も相互依存性がはるかに低かったのです。
つまり、グローバル化がもたらす影響は双方向に働いています。権威主義体制もそのメリットを悪用できる一方、グローバル化が引き起こす変化に対してより脆弱になる可能性もあるのです。
民主主義と資本主義に対する疑念
――グローバル資本主義の牙城ともいうべき米国の社会には深い断層が走り、社会構造を引き裂きつつあります。米国社会の分断を引き起こした要因は、地理的なもの、教育的なもの、そして時には道徳的なものなどがあると思います。それらはすべて、中流階級の収入の停滞と非常に密接に関連しているように見えます。これを、あなたは「エレファントカーブ(象グラフ)」によって、見事に説明されました。欧米やおそらく日本も含む先進国において、民主主義と資本主義に対する疑念が深まっていることと、冷戦後のグローバル化との関係についてお話しいただけますか。
(※エレファントカーブ:1988年~2008年までの20年間において、先進国の高所得者層と、新興国・途上国の中間層の所得が大幅に上昇している一方で、先進国の中所得者層の所得が減少していることを表したグラフ。このグラフの形が鼻を上げた象の姿のように見えるため、「エレファント・カーブ」と呼ばれている)
今日の不確実性について述べるためには、少し過去に戻らなければいけません。「エレファントカーブ」は、あなたが示唆したように、豊かな国の中間層の不満や不平の事実に焦点を当てるものです。強調しなければならないのは、これが豊かな国の中流階級であることです。
なぜなのでしょうか。これは、先進国の中間層の所得が絶対値で実質的に減少したからではありません。裕福な国の中でGDPと人口の点で、最も重要な3つの国は米国、日本、ドイツです。そこには約5億人の人々がいます。これらの国の所得分布の下の方を見ると、2億5000万人です。これは大変な数です。こうした人々はグローバル化の中で、所得を減らしてしまったのでしょうか。
アメリカ、日本、ドイツ……先進国の中間層が没落していく理由
いいえ。実質的には、どの階層も所得が増加しました。ただ、問題は二つの側面からみることができます。
1つ目は、先進国の中間層の実質所得の増加は、非常にわずかなものだったということです。基本的には、過去30年間の平均で、1人あたり年間1%未満という程度です。伸びは弱く、人々の期待を下回るものでした。
2つ目に、政治的な意味合いが大きかったのは、中国、インド、ベトナム、インドネシア、タイの中間層はまだ貧しいものの、先進国の中間層よりも高い所得の伸び率を享受した、ということでした。さらに、先進国でも「上位1%」の人々の所得は、非常に大きく増加したのです。
その増加は劇的でした。例えば米国のデータを見ると、1983年から2008年の世界金融危機までは、所得階層で下から95%という大半の人々は、実質所得の伸びがせいぜい年1%未満という非常に控えめなものでした。しかし、それ以上の富裕層になると急激に増加して、2%、3%、4%、さらには6%となっていたのです。