愛国と減税を掲げた「日本保守党」のざんねんな暴走「ノスタルジー保守の末路」…経済誌元編集長「理念だけで政治動かず」

「愛国と減税」を掲げた日本保守党。昨年の衆議院選挙ではいきなり3議席を獲得するなど大躍進した。その一方で、内部でのゴタゴタが漏れ伝わる。一体何が起こっているのだろうか。経済誌プレジデントの元編集長で作家の小倉健一氏が解説するーー。
目次
「愛国と減税」を掲げる日本保守党の綱領
本来、日本保守党の応援団であったはずの保守雑誌「月刊WiLL」「月刊Hanada」から、大きな批判に晒されている。いったい、日本保守党に何が起きているのだろうか。
私はかねてから「愛国と減税」を掲げる日本保守党の綱領の文言を高く評価してきた。
「日本保守党」の登場は、近年の保守系政治運動の中でも特異な存在感を示していたと思う。党の基本理念と綱領には、日本国民の安全と尊厳を守り、領土・領海・国体を守るという明確な方針が記されている。国防力の強化、憲法改正、減税と行政のスリム化、農林水産業や先端産業への投資、そして外交による国益の最大化という一連の政策群は、シンプルな言葉として力強さを備えている。政治的主張が抽象的な理屈に終始せず、直感的に理解しやすい点において、既存の自称保守政党である自民、維新と明確な違いがある。
自民党の綱領は、理念としての「日本らしい日本」を掲げつつも、文章構成が冗長で、具体性に欠ける部分が多い。抽象語と修飾語が頻繁に用いられ、何を実現したいのかが見えづらい。たとえば、自由と民主の旗を守るという主張は繰り返されるが、それが具体的にどの政策にどう反映されているのか、国民にわかりやすく示されていない。保守主義という言葉に逃げ込み、「変えるべきものを変え、守るべきものを守る」といった抽象論に終始している。選挙敗北の反省を綴る長文の中にも、自己変革への痛切な意志は見られない。
日本維新の会の綱領は、人口減少、東京一極集中、産業規制、国会制度の機能不全など、日本社会の構造的課題を網羅的に列挙している。しかし、そこに記された課題認識と解決方針は、技術官僚的で、行政改革のための行政文書と化している。党としての哲学が欠如しており、感情的に共鳴できる語り口ではない。理念は「これまでの政治の延長では未来は変わらない」というものに尽きるが、では未来をどう変えるのかについてのビジョンは、細部に埋もれたままである。
日本を守る、減税する、農業を強くする、外交で国益を守る
地方分権や統治機構改革は確かに現実的な議題であるが、政治的エネルギーを感じさせる表現にはなっていない。それが大阪万博の失態、教育費税負担化などの国民の失望を買う起点になっているような気がしてならない。
日本保守党の主張は、このような既存政党の「難解さ」と「官僚的文章」に対する鮮明な対極として機能している。日本を守る、減税する、農業を強くする、外交で国益を守る。単語と動詞がはっきりしており、誰が見てもやりたいことがわかる。有権者目線からすれば、こうしたわかりやすさは魅力となる。
日本保守党の政治的コミュニケーションは極めて明快である。自民党や維新の会が、複雑な社会構造を前提にした政策パッケージを掲げる一方で、日本保守党は「国体を守る」「憲法を改正する」「減税で可処分所得を増やす」といった直接的な文言で国民に訴える。
既存政党への攻撃姿勢も、日本保守党の特徴である。とくに自民党に対しては、「増税政党」「言葉だけの改憲主張」といった表現で一貫して罵倒を展開している。日本維新の会に対しても、「大阪利権の延長」といった批判が繰り返されている。過激かもしれないが、この批判は真実であろう。
一方で、残念なことも起きている
一方で、残念なことも起きている。とくにWiLL誌2025年5月号における百田尚樹氏及び日本保守党への論評は、私はショックだった。この論評の中でも特にびっくりしたのは、百田氏が自らの影響力を使い、他者に対して発言削除を求め、圧力をかけたとされる出来事が明かされたことだ。発言の主はテキサス親父日本事務局の藤木俊一氏である。藤木氏によれば、杉田水脈議員のSNS投稿をきっかけに、百田氏から怒声まじりの電話が入り、「俺を馬鹿にしている本を載せるな」「投稿を削除しろ」と迫ったという。さらに、投稿の削除だけでなく、削除理由の投稿すらも止めるよう要求されたという証言があった。
このような行為が事実とすれば、単なる感情的反発を超えて、言論空間への圧力とみなされる。政治家であれ言論人であれ、他人の発言の自由を封殺する行動は、民主主義社会の根幹を揺るがす。電話での一方的な怒鳴り声、削除強要、公開理由の投稿への妨害。いずれも表現の自由に対する攻撃であると考えざるを得ない。
誠実な言論のあり方を重視する姿勢
言論の自由とは、自身の意見を述べる自由だけでなく、他者の異なる意見を受け止める責任でもある。政治的言論の世界において、支持者を扇動し、批判的言説を抑圧しようとする姿勢は、保守の名に値しない。百田氏のふるまいは、保守主義が本来尊重すべき自由・寛容・秩序といった価値から大きく逸脱している。テキサス親父日本事務局の活動は、かねてより対外的に日本の立場を発信する役割を担ってきた。その活動に従事する藤木氏への圧力は、言論の健全な多様性を破壊しかねない。
WiLL誌5月号における論評は、この問題を看過せず、具体的な言動を文献と証言に基づいて取り上げた点において、言論空間の倫理を回復する試みとして評価に値する。ベストセラー作家であった百田氏を「丁重」に扱うことが出版社の利益にも叶っていたのだろうが、編集部は一歩踏み出したわけだ。お金儲けとしての正しさよりも、誠実な言論のあり方を重視する姿勢が確認できた。
日本保守党が掲げる綱領には「議員は最高の公僕であるべきだ」という一文がある。議員が国民の模範であるならば、支持者の力を借りて言論人を攻撃するような行為は、最もその理念に反する行動である。SNS上で起きる攻撃の連鎖、公開アカウントへの集中砲火、削除要求の圧力といった現象は、現代の情報空間における新たな権力の行使形態である。保守主義が本来警戒してきたのは、こうした非制度的な群衆の暴走であるはずだ。
急進的な断絶ではなく、秩序ある制度改革
ロンドン大学の歴史学者リチャード・バークは、2018年の論文『What is Conservatism?』(保守主義とは何か)において、保守主義の本質を実証的かつ懐疑的に分析した。その中で、近代保守主義の源流とされる政治思想家エドマンド・バークの実践を、歴史的文脈に照らして丹念に再構成し、「保守主義の伝統」という語が後世の政治的必要に応じて再構築された虚構であることを明らかにした。『What is Conservatism?』の分析によれば、エドマンド・バークは変化を恐れた人物ではなかった。むしろ、制度の腐敗と統治の不正義に対して強い批判精神を持ち、既得権益の擁護を目的とするような反改革的立場とは一線を画していた。
東インド会社の専横を批判し、アメリカ独立戦争におけるイギリス政府の強権的対応を非難した姿勢には、自由と制度的均衡を重視する近代的思考が表れている。エドマンド・バークは、急進的な断絶ではなく、秩序ある制度改革こそが社会の継続性と活力を保つと確信していた。
保守とは感情の発露ではない
伝統の維持は目的ではなく、手段に過ぎなかった。必要な改革を避ければ、制度全体が不信と停滞に陥るという合理的警戒をもって、常に社会制度の健全性を問い直した。「守るべき価値はなにか」「変えるべき制度はどれか」を見極め、冷静に修正していく姿勢こそが、バークの思想の核にある。
『What is Conservatism?』が提示したバーク像は、変化を拒む守旧派ではなく、制度的柔軟性と秩序の再設計を志向する、知的に洗練された改革的保守である。そこでは理念の純粋性よりも、制度の機能性と倫理的整合性が優先される。したがって、怒りや情念に流された衆愚的行動や、群衆を動員した圧力政治とは一切相容れない。自由な経済、責任ある政治、透明な制度設計といった、現代の基本的価値とバークの姿勢とは十分に共鳴し得る。
理念を掲げるだけでは政治は動かず、制度改革と実行責任によってのみ社会は更新される。国家の持続可能性は、無条件の伝統尊重ではなく、歴史的経験とデータに基づいた合理的選択に委ねられるべきである。『What is Conservatism?』が提示したように、保守とは感情の発露ではなく、公共の制度を整備し直す責任の哲学である。市場や個人の自由を保障しつつ、公共秩序を維持するというバランス感覚を欠いた保守主義は、現代社会において持続しえない。
今、日本保守党をはじめとする保守系政治勢力に問われるのは、まさにこの制度合理性に立脚した態度である。責任を引き受ける気概なくして、保守はただのノスタルジーに堕する。『What is Conservatism?』の議論が教えているのは、その知的重力と冷静な構想力の重要性である。
*編注:藤木俊一氏の名前を修正しました。お詫びして訂正します。(4月7日)