中国の渡航自粛勧告で消費2.2兆円減の衝撃!「日本の経済的弱点を正確に突く」棍棒外交の魔の手が迫る「唯一の打ち手はこれだ」

日中の緊張が高まっている。きっかけは台湾有事が「存立危機事態」になり得るとした高市早苗首相の国会答弁だ。中国政府は日本への渡航自粛を促し、教育省は留学の慎重な検討を呼びかけた。これにはどれくらいの経済損出が見込まれるのだろうか。「消費額2.2兆円減、実質GDPを0.36%押し下げ」。この数字が意味することとは何なのか。われわれの生活にどんな影響があるのか。経済誌プレジデントの元編集長で作家の小倉健一氏が解説していく――。
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「消費額2.2兆円減、実質GDPを0.36%押し下げ」
資生堂の株価が11%急落し、三越伊勢丹ホールディングスが10%以上下落した。11月17日、週明けの東京株式市場で起きたインバウンド(訪日客)関連企業の株価暴落は、一つの政治的発言がどれほどの経済的打撃となり得るかを冷徹に示した出来事であった。
発端は、高市早苗首相による国会答弁である。首相が台湾有事を「存立危機事態」と表現したことに対し、中国政府は「抗議」から即座に「対抗措置」へと移行した。中国外務省は国民に日本への渡航自粛を促し、教育省は留学の慎重な検討を呼びかけ、中国国有航空大手は航空券の無料キャンセルで追随した。
この一連の流れに対し、日本の多くの報道が現象の表面をなぞるに留まっている。例えば、中国政府の対抗措置を「常套手段」と紋切り型で報じたり、民間シンクタンクによる経済的損失額の「試算」を右から左へ受け流すように紹介したりする記事がそうだ。野村総合研究所のエコノミストが試算した「消費額2.2兆円減、実質GDPを0.36%押し下げ」といった数字は衝撃的だが、日本の報道の多くは、その数字が持つ戦略的な意味を理解していない。
「政治と経済は別」という幻想
こうした報道は、中国の行動を「経済への重し」 として、まるで台風や地震のような、受け身で耐えるべき自然現象のように記述している。経済的損失の「額」は計算するが、経済的打撃を与える「メカニズム(仕組み)」、すなわち中国側がこの「経済的こん棒」 をいかに意図的に、そして効果的に使用しているかについての踏み込みが絶望的に甘い。
「政治と経済は別」という幻想が、データによって否定されて久しい。国同士の「仲の良さ」が貿易にどう影響するかは、もはや印象論ではなく、冷たい数字で計測可能な領域である。
政治が貿易を動かすのであり、その逆はない
2020年に発表された学術論文、グレゴリー・ウィッテン(Gregory Whitten)氏らによる「政治的関係は国際貿易に影響を与えるか? 中国の12の貿易相手国からの証拠」は、日本の報道機関が理解していない、この冷徹な現実をデータで裏付けている。
この研究は、1981年から2019年という長期にわたる中国と、日本、アメリカ、韓国、ドイツなど12の主要貿易相手国との月次データを分析したものである。
特筆すべきは、政治的関係のスコア(-9から+9)を、中国の清華大学が作成したデータベースから取得している点である。このスコアは、戦争、首脳会談、歴史問題といった政治的・軍事的な出来事のみに基づき、「中国側からの視点」で評価されている。
ウィッテン氏らの論文が明らかにした事実は、二つある。
第一に、「政治が貿易を動かす」のであり、その逆はほとんどない、という厳然たる因果関係である。
第二に、「政治的関係」へのショック(変化)は非常に持続的であるのに対し、「貿易」へのショックは一時的で、1年以内に消えてしまう、という事実である。
「我々の分析結果は、関係へのショック(変化)が非常に持続的であり、頻繁に貿易の変化を引き起こすことを示している。しかし、関係そのものは貿易の変化によってほとんど影響を受けず、貿易の変化には持続性がほとんどない。我々のグレンジャー因果性テストは、関係が貿易に因果性を持つことは頻繁にあるが、貿易が関係に因果性を持つことはあまりないことを示している」
「2.2兆円の損失」と騒ぐこと自体が、中国の戦略が成功している証拠
この学術的知見が意味することは明白である。中国政府は、政治的な対立を引き起こすことが、「持続的かつ一方的に」相手国の貿易(経済)にダメージを与えられることを、データ的にも経験的にも熟知している。日本の報道が「2.2兆円の損失」と騒ぐこと自体が、中国の戦略が成功している証拠に他ならない。
ここで厳しく批判されなければならないのは、高市首相の外交的センスの欠如である。
台湾有事が日本の安全保障に直結するという認識自体は、現実的な議論である。問題は、その現実を、何の戦略的準備もなしに、国内の国会答弁という場で不用意に「挑発的」と受け取られる言葉で表現した稚拙さにある。
「唯一の負け手」を踏んだ高市首相の行動
ウィッテン氏らの論文は、さらに残酷な事実を日本に突きつける。分析対象となった12カ国のうち、オーストラリアやドイツなどは政治的関係が改善すれば貿易も増加した。しかし、日本、アメリカ、韓国、インドの4カ国においては、政治的関係が改善するというポジティブなショックを与えても、貿易には「ほとんど(negligible)影響がなかった」 のである。
この「日本のための特異な非対称性」を理解する必要がある。日本にとっては、中国との関係を「良く」しようとする外交努力(例えば、首脳会談や経済人の交流)は、貿易という実利には「ほとんど結びつかない」。一方で、関係を「悪く」する政治的行動は、ウィッテン氏らの論文が示す通り、「持続的かつ深刻な」経済的ダメージとして即座に跳ね返ってくる。
高市首相の行動は、この状況下で「唯一の負け手」を踏んだに等しい。戦略的に破綻している。成果の出ない「友好」カードは使えず、ペナルティだけが機能する「制裁」カードだけを相手に渡してしまった。この政治的失態は、事態が収まった上で追及されるべきだろう。
今回の騒動は、「経済と安全保障の分離」という牧歌的な時代が、完全に終わった現実を見せつけている。高市外交の稚拙さは論外である。しかし、中国との根本的な価値観の対立は、いずれ表面化する「避けられない衝突」でもあった。
中国は、日本の経済的弱点を正確に突いてきた
重要なのは、これから日本が持つべき「覚悟」の種類である。
この先の日本政府が、トランプ米大統領の失敗した関税政策のような「経済安全保障」に進むことを、我々は強く危惧したい。 中国が経済を武器にするからといって、こちらも関税や制裁で応じる道は、超大国アメリカですら失敗が見えている道である。日本に勝ち筋はない。
求められる道は、経済のブロック化や保護主義ではない。それとは逆に、台湾、オーストラリア、韓国…諸国との自由貿易を基軸とした世界的供給網(グローバル・サプライチェーン)を再構築することである。 中国が政治的圧力で「閉じる」戦略を取るならば、日本は自由な国々と「開く」戦略で対抗するべきだ。
とはいえ、短期的な主権の侵害を座視するわけにはいかない。
中国は、日本の経済的弱点を正確に突いてきた。そして同時に、中国の在大阪総領事である薛剣氏は「差し出した汚い首は切り落とさねばならない」という、外交官の地位を逸脱した威嚇を行った。
中国にも同等のコストを支払わせるという厳しい国家の意志
日本が取るべき道は、この経済的圧力に屈して安全保障上の懸念を口にしないことではない。それは日本の主権と尊厳を売り渡す行為である。
さりとて、経済的打撃をただ耐え忍ぶだけでもない。このままだと一方的にやられたにすぎない。相手がやったこととこちらがやることを「等価」にしなくてはならないのだ。
具体的には、大阪総領事を「ペルソナ・ノン・グラータ(好ましからざる人物)」として国外退去させた上で、 その後の経済的・政治的なハレーション(悪影響)を抑えるための交渉に入るべきである。 まず行動で「等価」な報復を果たし、その上で交渉のテーブルに着く。その順序を間違えてはならない。
ささやかながら称賛されるべき点があるとすれば、政府が公式に発言を「撤回」しなかったという一点である。だが、そのか細い一線だけで主権が守れるほど、国際政治は甘くない。
中国は、冷徹に、かつ長期的に戦い続けるべき相手である。 日本国民は、インバウンド消費2.2兆円の消失という痛みを、安全保障上の立場を明確にするための「コスト」として受け入れるだけでは不十分である。そのコストを支払いながら、相手にも同等のコストを支払わせるという、厳しい国家の意志を示す覚悟が求められている。資生堂の株価急落は、その現実認識の始まりを告げるゴングなのである。