200兆ドルを動かす「影の銀行」の正体…危うすぎる現在地!山一證券の悪夢は終わっていなかった

金融システムが大きく揺らいだ1997年の日本は、銀行破綻が相次ぎ、証券市場の信頼も根底から問われる局面にあった。山一証券の自主廃業は、その象徴的な出来事として記憶に残る。あれから四半世紀以上。法制度の整備やガバナンス改革は進み、大企業の経営基盤も当時とは比べものにならないほど強固になった。しかし、金融の複雑化とグローバル化が進む現在、危機の芽はより見えにくく、より多様な形で生まれている。表面的な制度や形式だけでは捉えきれない「組織の弱さ」が、静かに積み上がっていく構図は、過去と重なる部分も少なくない。日経新聞編集委員・小平龍四郎氏が、こうした歴史の連続性に改めて光を当てるーー。
目次
1997年の「銀行破綻連鎖」が示した、ガバナンス崩壊のリアル
毎年11~12月はコーポレートガバナンス(企業統治)について特に深く考えさせられ。日本の金融システムが音を立ててきしみ、銀行や証券会社の破綻が連鎖したのが、1997年11月。三洋証券、北海道拓殖銀行、山一証券、徳陽シティ銀行――。毎週のように金融機関が倒れ、「日本の金融は本当に持ちこたえられるのか」という不安が市場を覆った。さらに12月には兜町の名門、丸荘証券が破産した。
一連の破綻劇のクライマックスは言うまでもなく、山一証券の自主廃業の発表だった。ガバナンスが機能しない会社はどんな運命をたどるのか。なぜ、ここまで放置されてしまったのか。
その問いを追いかけてまとめたのが、拙著『山一前後――日本証券市場の敗戦と復興』(日経BP)である。以下の話は、その一部をかみ砕きながら、現在のガバナンス論とつなぎ直してみようという試みでもある。
肝心のトップが言い出せない
1997年11月21日の夜、東京証券取引所の幹部に「山一証券が自主廃業になる」との一報が入った。大蔵省からの電話である。取引所側はただちに山一経由の取引を洗い直し、決済に支障が出ないように備えなければならなかった。しかし、その時点で、山一の社内ではまだ「正式な説明」が取締役全員に伝えられていなかった。
同じ夜、茅場町タワーの会議室では山一の取締役会が開かれていた。大蔵省が決めた「自主廃業」を会長と社長が役員に伝えるべき場だったが、肝心のトップが言い出せない。すでに「もう持たない」と覚悟を決めていた役員も少なくなかったのに、だれも「本格的に調べよう」「自分たちの責任として腹をくくろう」とは言わなかった。
40人全員が“男性生え抜き”――閉じた経営集団の限界
後になって公式の記録をひもとくと、「新聞報道を見て初めて知った」と語る取締役の声が並ぶ。だが、損失隠しの噂は90年代を通じて市場関係者の間を何度も駆け巡っていた。不正の兆候を知りながら、あるいは知り得た立場にありながら、取締役会として動かなかった責任は重い。
1997年6月時点の取締役は総勢40人。全員が日本人男性の生え抜きで、女性も外国人もいない。昇進の条件は「飛ばし」の実態を知っているか、知っていても追及しないこと――そんな、なれ合いの閉じた集団だった。取締役会は常にファジーな同調圧力に支配され、異論や疑問は「空気」によって封じられた。
拙著『山一前後』でも詳しく書いたように、これは山一だけの特殊事情ではない。当時の日本企業の多くが、似たような体質を抱えていた。「山一証券」は、ガバナンスが未成熟だった「日本株式会社」の象徴だったのである。
ただし、97年11月の出来事を「一社の不祥事」として片づけると、本質を見誤る。あの月、日本はミニ版の金融危機を経験していた。三洋証券のデフォルトはコール市場を凍らせ、拓銀や徳陽シティ銀行の破綻は地方金融の脆さを露わにした。邦銀が調達するドル金利は急騰し、「資金がつかめない」という悲鳴に近い声が相次いだ。
金融庁誕生へ――銀行局・証券局の分離が避けられなかった背景
銀行が資金繰りに行き詰まると、国債などの担保をもとに日銀が緊急融資を行う。だが、それにも限度がある。「あと何日持つのか」「預金の流出スピードはどうか」。日銀と大蔵省の担当者は毎晩のように議論を重ね、臨界点を見極めながら、合併や破綻処理のシナリオを描いた。
預金保険機構の資金だけでは足りず、公的資金投入が不可避となった。破綻予防のための資本注入制度、受け皿銀行の創設――今では当たり前のように語られる枠組みの多くは、この97〜98年の「金融国会」の中で、与野党が徹夜で議論を重ねる過程から生まれている。
その背後には、「なぜ税金で銀行を救うのか」という世論の激しい反発があった。破綻銀行の経営陣には刑事・民事の責任追及が相次ぎ、大蔵省も過剰接待問題で信頼を失った。金融行政は根本的な見直しを迫られ、最終的には銀行局と証券局が分離され、金融庁が誕生することになる。
世界は11年後に再び揺れた。リーマン破綻と日本の危機が語り合うもの
山一の「社員は悪くありません」という会見は、こうした制度転換の真っただ中で起きた“象徴的な瞬間”でもあった。簿外損失を隠蔽した企業が市場から退場を宣告される。それは、市場機能を重視する日本版ビッグバンの始まりを、残酷なまでに鮮明に示す出来事だった。
しかし、教訓は放っておけば必ず風化する。
11年後、世界はリーマン・ブラザーズの破綻と世界金融危機を経験することになる。リーマンは銀行のような預金取扱機関ではない「非決済金融機関」だったが、その破綻はグローバルな信用収縮を引き起こした。日本の97年危機で見えた構図と、どこか重なる。
歴史学者ニーアル・ファーガソンは、著書『マネーの進化史』のなかで「アメリカ財務省はリーマン破綻のインパクトを甘く見た」と断じている。97年当時、日本の金融当局も証券会社の破綻リスクを相対的に軽く見ていたことを、後に日銀や大蔵省の関係者は率直に認めている。国が違っても、「銀行以外の金融機関」がもたらすシステミックリスクへの目配りは、どうしても遅れがちになる。
シャドーバンキング“200兆ドル”の深淵――いま金融リスクはどこに潜むのか
現在、世界の金融システムは97年当時と比べれば格段に強くなった。大手銀行は分厚い自己資本を積み、証券会社も銀行並みの規制に服している。だが、その外側に「影の銀行(シャドーバンキング)」と呼ばれる巨大なエリアが広がっている。ヘッジファンド、プライベートファンド、暗号資産関連ビジネス――伝統的な銀行の枠外で動くプレーヤーが、総額200兆ドルとも言われるマネーを動かしている。
一部に損失が生じたとき、その火の手がどこをどう伝って広がるのか。波及経路が見えにくいのが、「影」の最大のリスクだ。米証券取引委員会(SEC)が暗号資産を対象にしたファンド向けの新たな開示規制を導入したのも、その危機感の表れだろう。しかし、規制を強めれば、その外側で新たなプレーヤーが生まれる。金融のイノベーションとリスクは、いつの時代も紙一重である。
日本国内では、アベノミクスの一環として2010年代半ばからコーポレートガバナンス改革が一気に動き出した。ガバナンスコードの策定・改訂を経て、上場企業の取締役会には社外取締役が3分の1〜過半を占めるようになり、委員会設置や会長とCEOの分離など、外形的な枠組みは大きく変わった。
しかし、問題は「形式」ではなく「実質」である。
・不正の兆候や重大なリスク情報を耳にしたとき、取締役はためらわず議論のテーブルに載せられるか。
・トップの責任を問うべき局面で、本当に「NO」と言えるのか。
・社内の弱いシグナル――現場のひそかな不安や疑問――を拾い上げる感度を、取締役会は持っているか。
最近の企業不祥事や決算を巡る混乱の事例を見ていると、「40人の日本人男性による生え抜き取締役会」という昭和の風景は消えたものの、自由闊達な議論を許さない空気や、強すぎるトップへの遠慮は、形を変えて残っているようにも見える。
制度は整った。それでも「声を上げられない組織」は崩れる
ガバナンスの実効性を高めるとは、制度を整えることだけではない。
「異変を感じた人間が、迷わず声を上げられる文化」をつくれるかどうか――それこそが問われている。
山一破綻から四半世紀以上が過ぎ、当時の緊張感や痛みを直接知る人は少なくなってきた。だからこそ、現場の空気や、当事者の迷い、組織の歪みを記録し、次の世代に手渡す作業が必要だと思っている。
拙著『山一前後――日本証券市場の敗戦と復興』では、
・破綻の数日前から当日までの証券界・当局の動き
・「飛ばし」の実態と、なぜ止められなかったのかという取締役会の構造
・日本版ビッグバンと、その後のガバナンス改革への長い道のり
を、当時の取材メモや関係者の証言をもとに詳しくたどった。あの11月に何が起きていたのかを立体的に理解していただくことで、現在のガバナンス議論や「次の危機」に備えるうえでのヒントになればと願っている。
危機はいつも、静かに忍び寄る。そして、最後まで声を上げなかった組織から崩れていく。毎年11~12月になると、あの頃の市場のきしむ音が、かすかに聞こえてくる。
その記憶を風化させないためにも、私たちは山一からの警鐘に、もう一度耳をすませる必要がある。