台湾有事で「10万人の日本人」が人質に…「14年以降17人拘束」中国の日本企業関係者が抱える巨大リスクに日本政府はただ警告するだけ

日中関係が悪化している。経済そのものへの影響が不安視されるが、駐在などのかたちで中国に住んでいる日本人やその家族はもっと根源的な部分での心配があるだろう。中国は日本企業関係者を突然拘束することがある。それでもなぜ日本企業は中国進出するのか。日本政府はどう対応するべきか。政治に詳しいコラムニストの村上ゆかり氏が解説するーー。
目次
チャイナリスクがあっても中国進出
中国への進出は、日本企業にとって自然な流れとして進んできた歴史がある。
1978年の改革開放以降、中国経済は急成長の道を歩み、人口規模や豊富な労働力が魅力となった。進出の波は1990年代に本格化し、2000年代には巨大市場としての期待が高まり、2010年前後に進出企業数は急増した。日系企業のチャイナリスクが懸念され始めた時期でさえ、中国の消費市場の拡大、製造コストの低さ、現地政府の優遇措置が企業の判断を後押しした。世界の工場と呼ばれるほどの生産体制が整い、あらゆる部品を中国で調達できる利便性が企業戦略の中心になった。
中国の都市人口は爆発的に増え、中間層が拡大した。日本企業にとってこの層は巨大な消費者であり、中国市場におけるブランド力を高めることが収益の柱とされるようになっていった。現地政府は外資誘致に積極的で、豊富な優遇措置を提供。法人税減免や用地提供、技術支援などが行われ、日系企業にとって参入障壁が低く見えた。
日本企業関係者が突然拘束される
だが実際には制度の恣意性が高く、法体系が複雑で不透明で、急成長する市場の魅力がリスクを飲み込ませた。日本国内は少子高齢化で国内市場が収縮し、成長余地が限られる中、海外進出は避けられない選択とされ、低金利環境で投資資金を調達しやすい中国事業を拡大するインセンティブはさらに強まっていった。
2014年以降、中国はインフラ投資や産業政策を強化し、ITや電動車などの分野で世界市場に影響を与え始めた。駐在員の数は自然と増え、外務省の統計では2024年時点で10万人弱の日本人が中国に滞在し、その多くが企業関係者であった。帝国データバンクの調査では、2024年時点で中国に進出している日本企業は1万3000社を超えている。
一方で中国で働く日本企業関係者が、国家安全関連の疑いで突然拘束されるケースは2014年以降少なくとも17件確認されていると外務省が明らかにしている。
帰国直前に拘束された駐在員。懲役3年6カ月に
最も知られている事例のひとつが、アステラス製薬の日本人駐在員が2023年に北京で拘束された案件である。
帰国直前に拘束され、国家安全に関する法律違反の疑いがかけられた。起訴内容は詳細に公開されず、裁判の経過も透明性を欠いたまま、2025年には懲役3年6か月の判決が報じられ、企業関係者に衝撃が走った。
同様の拘束事案はこの事件に限らない。研究開発関係者、サプライチェーン担当者、さらには地方の拠点で働く一般社員まで、さまざまな立場の日本人が拘束されている。内容はほとんどが「国家安全に関わる疑い」としか説明されていない。営業情報、技術資料、業務メールなどが摘発対象になる可能性が指摘されている。
中国の反スパイ法は、国家安全の定義が極めて広く、何をもって違反とされるか明確でない。業務上の通常の連絡や資料の持ち出しが、当局の判断によってスパイ行為に分類される余地がある。境界線が曖昧であるからこそ、駐在員の行動は常にリスクと隣り合わせになる。
過去の拘束例を確認すると、個人の意図の有無にかかわらず、情報に触れたという事実だけで容疑が構成されている点が共通している。技術データ、設備情報、生産計画、顧客リスト、これらが企業にとっては通常の業務であるにもかかわらず、中国当局にとっては国家安全に関する情報とみなされる可能性が生じる。
明確なルールよりも情勢や判断が優先
2023年に行われた反スパイ法の改正はこの傾向を強めている。規制対象が情報の取得、保管、伝達にまで広がり、意図しないデータの扱いが容疑を生み出す構造になった。
拘束後の情報は限られ、家族や企業は現状を把握できないまま対応に追われる。外交ルートを通じた情報収集には時間がかかり、当事者の状況が公開されるまで長期間を要する。中国当局の運用は、明確なルールよりも情勢や判断が優先される傾向が強く、国家安全を理由にした不透明な拘束が続いており、駐在員が不意に標的となる危険性は決して低くはない。
中国に進出した企業が抱えるリスクには「政治情勢に応じた出国制限」もある。中国は過去に、外資企業への行政措置を政治的なメッセージとして使用してきた。税務調査の頻発、通関手続きの遅延、ビザ発給の停止などが行われ、事実上の経済制限となった。外交関係の悪化に合わせて外国人の移動制限が強まる事例も報じられている。つまり仮に台湾有事が起きれば、邦人10万人弱が出国不能になるのは現実的なリスクなのだ。平時でさえ拘束や出国制限が起きていることを踏まえると、有事という国家間の緊張下では、邦人保護の枠組みが機能せず、安全な退避が保証されるとは言い切れない。
国家安全の名のもとに個人の行動が突然制限
「行政措置による移動封鎖」というリスクも存在する。中国のコロナ対策がまさにその典型例だ。コロナ禍では、中国だけでなく欧州もアジアの各国も外出制限などの“ロックダウン”を行ったが、多くの国で食料調達や医療機関への移動は認められ、外国人の出国は保障されており、強制力が段違いな中国の封鎖とは全く異なる。中国ではマンションの出入口が物理的に閉ざされ、外に出ること自体が不可能となり、住民の移動を監視する体制が構築され、違反者への処罰も厳しかった。外国人は帰国すらできず、航空便の大部分が運休し、行政の許可なく空港へ向かうことが許されなくなった。
中国の場合、この封鎖の強度がコロナ禍に限られない点も見過ごせない。国防動員法や国家安全法、反スパイ法の枠組みが存在しているため、行政命令だけで出国制限や移動制限が発動される構造が平時から成立している。パンデミックという特別な状況ではなく、政治判断ひとつで外国人の行動が止まる可能性が常時存在する――この制度面が中国特有の環境である。
中国の法体系では、国家安全の名のもとに個人の行動が突然制限される可能性がある。駐在員が拘束されるリスクは特別な行為をしたからではなく、通常業務の延長線上に存在するのだ。この現実は、中国との関係が深い企業ほど見過ごせない。
最も安全な道が撤退である
中国リスクが制度化されている以上、最も安全な道が撤退である。撤退はコストも負担も大きいが、人員を危険に晒すことの代替にはならない。
米国商工会議所の2023年の調査では、在中米企業の約25%が「撤退または中国依存度の低減」を決定したとされる。欧州商工会議所の報告でも、在中企業の撤退や縮小が過去最大となったと記されている。撤退は決して日本企業にとっても特別な選択肢ではない。
撤退が難しい企業にとって、現実的な対応が縮小と分散である。中国の現地法人を必要最小限の運営単位に変え、ASEAN、インド、日本国内に機能を移転していく戦略である。いわゆる“チャイナ・プラス・ワン戦略”は、米国や欧州企業ではすでに標準戦略だ。IMFの2024年報告書は、サプライチェーンの集中が政治リスクと経済衝撃を増幅させると指摘し、分散化を推奨している。
これらを実施するまでは防御を最大化するしかない。
在中米企業の約24%「事業を他国へ移す」
駐在員を短期ローテーション制に変え、長期滞在者の数を減らすことや、データを国家安全法の射程から外すために、重要情報を扱う部署を海外に置き、現地では最低限の業務に限定することなどが考えられる。米国企業はすでにこの体制に移行している。
駐在員保護体制も欠かせない。欧米企業の危機管理部門は、出国不能になった社員を救うための緊急手順書を持ち、チャーター便の確保や代替ルートを常に確認している。この水準の防御は、中国で社員と事業を守るためには、企業が当然備えるべき最低ラインの防御策だろう。
中国のリスクを踏まえて、欧米企業は既に中国からの撤退や縮小を明確に進めている。AmCham Chinaの調査では、在中米企業の約24%が「事業を他国へ移す」と回答し、欧州企業でも2023〜2024年は過去最大規模の撤退・縮小が起きたと報告されている。世界が中国リスクを減らす方向へ動く中、日本企業だけが何故か逆行している。帝国データバンクの2024年調査では、中国に拠点を持つ日本企業は13034社で、2年前より328社増えている。欧米企業が「減らす」のに対し、日本企業はなんと「増えている」のだ。この構造は、日本だけが、中国と隣国でありながらそのリスクを理解しないまま残されているのではないか。
日本政府はただ警告するだけ
日本政府はこの事実をどう捉えているのか。拘束された邦人がすでに17人は存在しているにもかかわらず、企業に対する具体的なリスク提示や、邦人保護体制、退避計画、情報共有の仕組みが十分に整備されていない。欧米政府が自国企業に対し「脱中国」「分散」「自国回帰」を強く促す中、日本政府はただ警告を出すだけである。
従来のビジネス感覚のまま中国に関わることは、もはや危機管理として成立しない。中国に残るなら、前述した防御策を最低限整えるべきである。政府も企業も、中国リスクを正しく踏まえた上で、「企業と社員を守る仕組みとは何か」を本気で考え速やかに議論と行動が進むことを、筆者は心から期待したい。