「その数30件以上」相次ぐ中国公演中止に歌手が高市首相に激怒していた「黙るな。怒れ。抗議しろ」…返金だけでは終わらない損失と構造的な影響

冷え込む日中関係の中、話題になったのは日本人アーティストによる中国公演の中止だ。歌手の浜崎あゆみ氏は上海での公演が直前で中止になり、SNSでファンに謝罪し、空席の観客席を背景にダンサーたちとステージに立つ自身の写真を投稿した人気アニメ「ワンピース」の主題歌を歌う大槻マキ氏も公演が中止になったが、スタッフが歌の途中でマイクを外し大槻氏が動揺している動画がネットで拡散した。一方で、シンガーソングライターの春ねむり氏はXで「黙るな。怒れ。抗議しろ」と怒りをあらわにした。同じくシンガーソングライターの七尾旅人氏も「高市氏の軽率な自己アピールで、東アジアの安定が大きく損なわれた」と政権を批判した。この問題によって日本は大きな経済的損失を被ったのは間違いないが、批判されるべきは日本なのだろうか。コラムニストの村上ゆかり氏が解説していく――。
目次
CNN「中止となった公演は30組以上」
中国で予定されていた日本人アーティストの公演が相次いで中止になった。その知らせは、リハーサルの合間や移動中の車内、深夜の楽屋で、静かに、しかし確実に広がっていった。理由は「諸般の事情」「安全上の理由」と明確には知らされなかった。いつもの表現だ。しかしその背後に何があるのかは、多くの関係者が直感的に理解していた。数日前、高市総理の台湾情勢に関する国会での踏み込んだ発言に中国が敏感に反応し、関係者の間では、その反応と公演中止が結び付けて受け止められた。点と点は自然につながり、シンガーソングライターたちは声を上げた。
「黙るな」「怒れ」「抗議しろ」
音楽で生きてきた人たちが、音楽ではなく言葉で、政治に怒りを向けた。中国のファンの顔が思い浮かぶ。楽しみにしていた会場の光景が消えた。収入の問題もあるし、スタッフや関係者の生活もかかっている。その怒りはアーティストたちにとっては正当であり、切実だった。その怒りは高市総理に向けられた。「なぜ余計なことを言ったのか」「なぜ文化や音楽が犠牲になるのか」。あの一言が私たちの舞台を壊したんだ―――。
12月3日、CNNは「主催者発表を基にまとめたところによると、中国の主要都市で予定していた公演やファンとの交流イベントがここ数日で相次いで中止となった日本のアーティストは30組以上」と報じた。
“返金だけでは終わらない損失”
11月21日のロイター報道によると、その態様は「リハーサル段階で私服警官が入り、主催側に「日本人のいる公演は全て中止」と告げた」という。つまり、アーティスト側や主催者側の努力では回避しにくい外生ショックとして発生している。
会場前で「返金」を求める群衆も現れ、コンサート中止が「航空券やホテル予約のキャンセル」「現地サポートスタッフのシフト減」などにも波及するという見立ても出た。チケット代は返っても、移動費や宿泊費、休暇の取得といった不可逆のコストは戻らない。大規模な公演キャンセルは、返金があっても遠方から来たファンの費用は補えない。コンサート中止が“返金だけでは終わらない損失”を生むこと自体は、国際報道で繰り返し確認される類型である。
11月にアーティストたちが高市総理へ怒りを表明したことは、ただの感情論ではなく、少なくとも「30件以上の中止」「現場介入による強制性」「返金要求の群衆」「航空券・宿泊のキャンセルといった周辺損失」という複数の事実に支えられている。これは「一部の炎上」ではなく、当事者の実損と結びつけて語っていることが裏づけられる。
11月の公演中止以降、アーティストたちの動きは人々の想像以上に複雑だった。中国ツアーの代替を探し、失われたステージを埋める努力は続いた。しかし、それはしばしば「探索」で終わることが多かったのである。
中国ツアーの代替として成立した例は、報道ベースでは限定的
当初、複数のアーティストが中国以外のアジア都市や国内公演への振替を模索し、また別のアーティストは「ベトナム、タイ、台湾などへの振替公演を調整している」という関係者の声が報道された。
しかし、状況はそんなに簡単ではなかった。中国市場は規模の大きさだけでなく、収益性の高さと集客力という点でもアーティストサイドにとって非常に利点の多い地域だった。東南アジアや台湾に移す場合、物理的な距離こそ近いが、動員数やチケット単価の観点で試算すると、中国本土に比べてどうしても劣ってしまう。
実際に代替公演が成功裏に開催された例は少ない。報道されている範囲では、一部アーティストが国内ツアーや配信ライブなどで補完的な活動を行ったという事例があるにとどまり、中国以外の海外都市で「同規模の有観客ツアーを実現した」という事例は確認できず、実際に中国ツアーの代替として成立した例は、少なくとも報道ベースでは限定的だ。
アーティストの活動戦略そのものに対する構造的な影響
結果として、多くのアーティストは「機会損失」という影響を受けた。単なる代替場所の探索に終始したのではなく、時間やコスト、スタッフのシフト調整、遠征費用などが重複して発生し、かつ元の収益を回復できない。「振替公演はコストがかさむだけで、実際の損失をカバーするのは難しい」のが現実なのだろう。
さらに重要なのは、ツアー中止が「芸術的なロス」も生んだ点である。多くのアーティストは中国でのパフォーマンスに向けて特別なセットリストや演出を準備していた。それらは公演がなくなれば観客の目に触れないだけでなく、時間をかけて練り上げた作品そのものが世に出ないこととなる。例えば、とあるインディーズバンドは中国ツアー限定で準備していた曲を、結局ライブで披露する機会を失ったと語っている(アーティストインタビュー、2025年12月)。今回の一連の出来事は、単なる「経済的損失」ではなく、アーティストの活動戦略そのものに対する構造的な影響を生んでいると言える。
高市総理の発言は、本当に「間違っていた」のだろうか。
高市総理の発言は、本当に「間違っていた」のだろうか。
高市総理は11月7日の国会で、台湾で大きな武力衝突が起きた場合、日本が「存立危機事態」と判断する可能性があると述べた。「戦艦を使った武力行使が行われれば、日本の存続にも深く関わる」という趣旨の答弁である。この発言は、日本がすでに決めている安全保障の考え方を、具体的な場面に当てはめて説明したものだった。
日本の立場は、実は昔から大きく変わっていない。台湾の帰属については、日本が決める立場にはない。しかし台湾海峡という地域で戦争が起きれば、日本の安全や暮らしに深刻な影響が出る。だからこそ日本は「平和的に解決してほしい」と強く願ってきた。もし中国が台湾に武力攻撃を行い、アメリカ軍が関わる事態になれば、日本も日米同盟のもとで一定の対応を取る可能性がある。高市総理の発言は、この考え方の範囲を超えていない。
しかし、それでも中国は強く反発し、一部の野党やメディアも「余計なことを言った」「日本が台湾防衛に踏み込もうとしている」と批判した。何故なら、中国にとって台湾は「絶対に外から口出しされたくない問題」であり、外国の首相が公の場で触れること自体が、強い反応を引き起こしやすいテーマであるからである。
台湾有事については、実は分からないことが多い
では、発言が制度上正しかったのなら、発言したことそのものに問題はなかったのだろうか。たとえば、ある会社が大きな取引先と長期契約を結んでいる場面を想像してほしい。契約書の内容としては正しく、「この条件を守れない場合、契約は解除される可能性がある」という条文が入っているとする。これは事実であり、間違った説明ではない。だが、取引が順調に進んでいる最中に、経営トップが準備や説明もないまま、その話を公の場で強調すれば、相手は「もう契約を切るつもりなのか」と受け取るかもしれない。内容が正しくても、言い方やタイミング次第で、信頼関係は一気に揺らぐ。
外交において首相の言葉は、日本国内だけでなく、外国や世界中に向けたメッセージとして受け取られる。そのため、公の発言はその影響範囲も踏まえて発言されるべきではないか。
台湾有事については、実は分からないことが多い。もし台湾で何か起きたとして、アメリカ軍はすぐに動くのか。動かなかった場合、日本はどうするのか。日本は台湾を国として認めていないが、それでも守る責任はあるのか。日本と台湾の間には、安全保障について正式に制度化された公的な協議の枠組みさえ存在しない。こうした準備不足のまま、首相の発言だけが先に出てしまったことは、不安を広げる可能性がある。
さらに難しいのは、日本が実際にできることの限界
さらに難しいのは、日本が実際にできることの限界である。仮に日本が「存立危機事態」と判断しても、自衛隊ができることは限られている。アメリカ軍を守ることや物資を支えることはできても、台湾を直接守るために戦うことは、今の法律では認められていない。もし台湾とアメリカが必死に戦っている中で、日本が後ろから支えるだけだったら、同盟国からはどう見えるのだろうか。
高市総理の発言は「間違い」ではなかったが、それを今、この形で言うべきだったのか―――今回の問題は、発言の内容よりも、発言が引き起こす波紋の大きさを、どこまで見通せていたのかが重要だったのではないか。
台湾有事に日本はどう向き合い、日本は何ができて、何ができないのか。その現実を、感情や対立ではなく、事実と準備の問題として考え議論する場が、これまで十分にあったとは言い難い。
その怒りの向ける先は、一人の政治家なのか
アーティストが怒った気持ちは理解できる。しかし、その怒りの向かう先は、一人の政治家ではなく、日本が長い間、難しい問題を先送りにしてきた構造そのものだったのではないか。発言を撤回するかどうかではなく、発言せざるを得ない状況に、日本がどこまで備えているのか。その問いを考えることこそが、今回の出来事から学ぶべき本当の教訓なのである。