連載小説「奪われるースパイ天国・日本の敗戦ー」第一話「静かな再開」
スパイ防止法がないこの“天国”・日本で、知らない間に国が「奪われる」──。
表向きの歴史やニュースの裏側に潜む、冷酷な国際諜報戦と、個人の運命が国家間の巨大な陰謀に巻き込まれていく壮大な安全保障サスペンス小説、ここに爆誕。
舞台は、女性初の内閣総理大臣・高地きみえが熱狂的な支持を背景に「強い日本」を目指す日本。彼女は長年の懸案である日本人拉致被害者の奪還を決意し、極秘裏に北朝鮮の金正恩総書記との会談に臨む。しかし、その外交交渉の裏側では、すでに北朝鮮の体制に「影」が差し込み、巨大な隣国・中国の思惑が絡み合っていた。
第一話「静かな再開」
「いやぁ、寒いな」
「話している余裕はないぞ」
ロシア・モスクワ近郊―。厳しく雪が降り注ぎ、凍てつく風が木々を切り裂く。ロシアの首都は視界を奪う吹雪がすべてを飲み込もうとしていた。地元の住民ですら近づかない森で初雪が観測されたのは例年と同じ10月だった。その奥深くに見慣れない男たちが足を踏み入れた。ソ連時代に築かれた軍事施設は今や「廃墟」のように見える。だが、地下に歩を進めると「基地」そのものだった。
最新のセキュリティトラップで固められ、侵入者の気配を察知すれば自動的に毒ガスが噴出する。ここに「3人の男」が命がけで集まることなど、知る者はいなかった。最初に到着したのは、100キロを超える巨体を揺らしながら歩く40代前半の角刈りの男。頻繁に後ろを振り返り、追跡者がいないかを確認している。
偽造パスポートと最新の変装技術でロシアに潜入した彼は、黒いコートに身を包み、雪を掻き分けて「基地」の隠し扉に辿り着いた。メガネの奥に浮かぶ目には狂気じみた警戒心が宿っている。
地下に潜るスロープにつながる扉は不気味な音を立てて開き、男は暗い通路を進んだ。洞窟のような空間に足音が反響し、遠くから微かな物音が聞こえる気がする。男はコートの内側から小型銃を抜き、いつでも引き金を引ける態勢を整えた。天井にジワリとにじむ雫が落ちて地面を叩き、緊張を煽る。突然、手元のランプの光が揺らぎ、通路の奥に見えた影が動いた気がした。「気のせいか・・・」。
右、左、左、右。何度か通路を曲がり、たどりついた分厚い扉の奥に古びたテーブルと三脚の椅子が置かれている。揺らめくランプの光が影を不気味に踊らせる。男は警戒しながら、入り口が見えやすい一番奥の椅子に座った。
「ピッ、ポッ、パッ、パッ、ピィー」。静まりかえった部屋に乾いた電子音が響く。そして、扉が再び開いた。入ってきたのは、2人の男だった。1人は、クマのようにガッシリとした体に丸顔の初老の男。もう1人は、鋭い切れ長の眼が特徴的な痩せ型の男だ。60歳近い初老の男は以前、マレーシアで暗殺されたと世界中のメディアが報じた。だが、ここにいる男たちだけは事実と異なることを知っていた。
彼は「偽者」の死をつくりあげ、影に潜伏していた。フードを深く被ったコート姿で現れ、顔の傷跡がランプの光にグロテスクに浮かび上がる。もう1人の痩せ型の男は国際社会には最も不可解な存在だった。欧州で音楽と贅沢に溺れていたはずだったが、その姿はスイスでの目撃情報を最後に突如消えた。どこで暮らしているのか、そもそも生きているのかもわからない。謎多き重要人物の1人だった。
扉が閉まる音が響き、3人がテーブルを囲んだ瞬間、空気が張り裂けそうなほどに凍りついた。
「合言葉を言え」
険しい表情を見せていた初老の男が他の2人に秘密の言葉を求める。あとの2人が同時に口を開いた。
「平壌から離れた場所にある―」
「我ら民族は―」
初老の男と痩せ型の男は顔を見合わせると、冷たく巨漢を睨み返した。空気が重く淀み、互いの息遣いが部屋に響く。「そうか・・・」。信じられるものは何一つない。いつ、誰が偽物として現れるか。あるいは、本物が裏切るか。ランプの光が影を長く伸ばし、3人の顔を歪めて映す。
巨体を揺らす男は頷き、ゆっくりと立ち上がった。汗が額に滲み、手が微かに震える。喉が鳴る音が聞こえ、部屋の沈黙を破った。痩せ型の男は、ポケットから古いメダルを取り出し、テーブルに置いた。3人だけが知る「秘密」のメダルだった。だが、巨漢だけは反応しなかった。2人の心に疑念が充満し、視線は殺意に満ちている。久しぶりの再会は、血塗られた嵐を呼び起こすかもしれない。2人は「また会おう・・・」とだけ言い残し、静かに部屋から出ていった。