たられば「僕は好きじゃない」…羽生結弦の美意識「自分ができることを」。そこに醜い「たられば」など不要

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世は定めなきこそいみじけれ
突き詰めれば「美意識」の問題のように、思う。
「世は定めなきこそいみじけれ」
吉田兼好『徒然草』の一節である。この世は無常、されど素晴らしい、とでも訳そうか。
物事は思い通りにはいかず甚だ残酷で、すべて永遠不変のものなどない生滅流転の無常にある。
だからこそ、世界は美しい。人は素晴らしい。無常だからこそ。
この美意識に反する言葉をあえて挙げるなら「たられば」だろうか。
心理学では「反事実的思考」とするが、少し意味合いが異なるように思う。シンプルに「たられば」でいい。現実になかったことを妄想し「ああだったら」「こうだったら」と後悔したり嘆いたり、あるいは、自己の正当化をはかる。
他者に対するリスペクトなき「たられば」ほど醜いものはない。
羽生結弦の言葉にあった「美意識」
例えば武士はそうした「たられば」を嫌う。
武士には「いさぎよさ」が求められた。結果がすべての命の張り合い、されど結果ばかりではない「美意識」を尊んだ。勝っても負けても、いさぎよく。
「たられば、ですけれども、僕は好きじゃないですけど、たらればで僕より上になっていた場合は、もしかしたら自分のリミットをさらに超えたものをやれた、かもしれません。それは、わかりません」
羽生結弦のこの言葉、まさにその「美意識」がある。
2018平壌五輪の会見「ネイサン・チェンがSPを失敗しなければ」という「たられば」を記者から受けての言葉だった。また羽生結弦はその前置きとして「ネイサン・チェンがノーミスするとかしないとか関係なく、自分ができることをやろうと思っていました」とした。
羽生結弦の美意識は常に自己闘争の中にある。誰がどうとかは関係ない。ああしたら、こうしたらの後悔も公言しない。
武士は美意識を尊ぶ、かつリアリストでもある。無常の現実と対峙する。まさに羽生結弦の、それだ。
たらればは美しくない
「僕は好きじゃない」