「そろそろ始めよう」脱北に失敗した北朝鮮の18歳が受けた拷問とは…そして再び脱北を決意した
23歳のときに生まれ育った北朝鮮を後にし、中国、ベトナム、カンボジアを経て韓国にたどり着いたキム・ヨセフさん。現在は日本でユーチューバーとして活動するキムさんだが、1度目の脱北計画は失敗に終わり、厳しい取り調べを受けることになったという。北朝鮮の家族や仕事を捨ててまで、キムさんが脱北を目指した理由とは――。
※本稿は、キム・ヨセフ『僕は「脱北YouTuber」~北朝鮮から命がけで日本に来た男~』(光文社)の一部を再編集・加筆したものです。
第2回:脱北者が聞くと必ず涙する「讃美歌」とは…命懸けで逃げ込んだカンボジアの韓国大使館での礼拝
第3回:脱北YouTuberキムさんが「苦労知らずの日本人」と「まん延する朝鮮差別」に思うこと
脱北失敗…待ち受ける厳しい取り調べ
南朝鮮(韓国)に脱北していた父親が手配してくれたブローカーと共に、一度目の脱北を試みた僕の挑戦は失敗に終わった。潜伏先までやってきた保衛部(秘密警察)の人間に連行され、留置所に送られた。2004年1月、18歳のときだった。
身体を動かすことは許されず、自由なのは息をすることだけ。そんな環境で過ごして3日目のある日、取調室に連れていかれた。2階に上がる階段で、格子付きの窓越しに通行人の男女が目に入ったとき、自分も数日前は、あのように自由に出歩いていたのに……と涙があふれた。
電球1つが灯り、電話と、床にヒーターがあるだけの簡素な取調室の中に、僕を捕まえにきた男がいた。男に「寒かっただろう、腹が減っただろう」と声をかけられたとき、久しぶりに人間の言葉を聞いたように感じ、思わず涙が出そうになった。収容者を動物のように扱う看守たちの言葉を浴び続けたため、こんな何気ないひと言がやさしく感じられて仕方なかったのだ。
だが男が差し出した餅を口に入れると同時に、両隣の壁から人を殴る鈍い音と悲鳴が聞こえてきた。餅の味を感じることなど、到底できなかった。
「さて……そろそろ始めようか」
男は僕の父親が韓国にいることなど、ブローカーしか知らないはずの情報を知っていた。僕が逮捕されたのは、ブローカーの間でトラブルが起き、そのうちの1人が保衛部に情報を流したのが原因のようだった。
脱北者の処遇は、動機や居住地域によって違う。国境地帯に住んでいて、単に食料を求めて中国に入る場合や、韓国や宗教団体と接点がない場合は処罰なしで出られることもあるが、僕のように本人の意思で国境から遠い地域から来た場合は、処罰が重い。罪状を認めたら数年間の懲役刑か、最悪の場合は政治犯収容所に送られることになる。
そのため、いかなる証拠を突きつけられても僕は頑なに、ブローカーに誘われて来たと主張し続けた。ブローカーと供述が食い違うと、革のベルトで背中を打たれたり、ヒーターに顔を近づけられたりした。取り調べは3日間続いたが、刑務所や政治犯収容所に入るよりはマシだと思い、ひたすら耐えた。
取り調べが終わると、数週間待機したのち、ほかの地域に移送される。待機中はただただじっと座っているだけだ。この時間は取り調べとはまた別の地獄であり、なんなら歩いたり人としゃべったりできる取り調べのほうがマシと思うほどだった。
僕が待機している間、釈放されて2週間後に再び脱北し、中国で捕まり戻ってきた人もいた。釈放されてすぐ捕まるのは不幸だが、僕は、中国で捕まった人はまだいいと思っていた。この国以外の世界を見ることができたのだから。中国にたどり着いてもいない自分がここにいることが悔しくて仕方なかった。
祖父母の涙に心痛
取り調べから約40日後、僕は安全部(警察)に移送され、そこで10日ほど滞在し咸鏡北道の清津に移されたのち、晴れて住んでいた街に戻ることができた。呼び出された叔父が「この子には親がおらず、私の監督不行き届きで変な人間に誘われてしまった。これからは私が責任をもってしっかりと面倒を見るので、どうか許してほしい」と言い、誓約書を書いてくれたおかげで釈放されたのだった。家を出てから、3カ月が経っていた。
ふと自分の顔を見ると、日光を浴びていなかったせいか真っ白になり、服は痩せてぶかぶかになっていた。家に戻ると、これまで僕を育ててくれていた祖父母が号泣しながら駆け寄ってきた。僕が黙って家を出た日、祖父は僕を探し回り、夜中に帰ってくるかもしれないと思って門を開けて待っていたそうだ。
祖父母には本当に悪いことをした。祖父母がこんなに泣く姿をはじめて見た僕は、2人に心の底から申し訳なく思った。あのときの2人の姿を思い出すと、今でも胸が痛み、涙があふれてくる。
脱北未遂をしでかした僕はその後、家族に迷惑をかけたぶん、真面目に働かなければいけないと思った。脱北に失敗すると「渡河者」と呼ばれ、地域によっては反逆者のようなレッテルを貼られることもあるが、地域と人脈しだいでは社会復帰ができる。
僕は叔父のコネクションが強かったのと、当時は北朝鮮で成人とみなされる19歳に満たなかったのでなんとかなった。仕事も叔父の知り合いの知り合いのツテをたどり、雇ってもらうことになった。職場は機械の部品を作って売る事業所で、管理者の権限でお金を少しずつもらう形だった。羊や山羊、ウサギの放牧をしていて、餌用の穀物を加工する事業所だと、とうもろこしの粉などを少しくすねてもバレないので、餌を作る仕事に職を変えたりもした。
当初は脱北のことは考えなかった。一度目の苦い思い出から、二度とそういう思いはしたくないという気持ちがあった。しかし、ずっとこのままでいるのも決して良い選択ではないと思っていた。
「もう振り返らない」再び脱北を決意
その後、2年目あたりから、再び脱北への思いが膨らんでいった。脱北しようとして、もしまた捕まったら……という恐怖もあったが、脱北経験者から中国の様子をより詳細に聞き、実際に目にしてみたい気持ちがますます膨らんだ。当時は結婚の話も出ていて、そうなったらこの社会を抜け出すことがいよいよ難しくなる。このままでいいのか、もう一度命をかけてチャレンジしたい……燻(くすぶ)っていた思いを抑えきれなくなっていた。
また、祖母が以前から「もし脱北した父のところに行きたいのなら、残りの人生は自分で決めるべきだ」「私たちは2人とも歳を取り、特に、倒れて骨折し歩けない状態の私が、お前にできることはもう少ないから……」と言っていたのも背中を押した。
それは「自分の思うようにしなさい。それが脱北であっても私たちは構わない」という〝暗黙の了解〞だったように思う。決めるまでは時間がかかったが、決めてからはただ実現のためだけに動いた。だが、祖父母に会うのが最後となる日も、祖父母には再び脱北するとは言えなかった。
一度目に失敗して戻ってきたときに見た、とめどなく涙を流す祖父母の姿が、自分が捕まってひどい目に遭ったことよりもはるかに辛く、二度と同じ様子を見たくないと思ったからだ。それに、もう絶対に戻らない覚悟をしていたからこそ、永遠の別れを告げることが耐え難かった。また、身元保証人になってくれた叔父に知られれば、叔父とその家族にも迷惑がかかることは確実だった。
万一また捕まったとき、祖父母や叔父が僕の脱北を知っていて送り出したとなると、それも問題になる。別れの言葉ひとつなく家を出るのは苦しいが、誰にも知られないまま行くのが最善だと思った。祖父母は命の恩人だ。父が行方不明になり、母が亡くなって以来、あのまま弟と路上で暮らしていたら、今頃は生きていなかった。叔父をはじめ、ほかの親戚にも感謝している。
それにもかかわらず、僕は無言で彼らの元を去ろうとしている。はたから見たら、僕は冷たい人間に見えるのかもしれない。だが僕はもはや、振り返ることはなかった。
覚悟を決めた僕は、脱北のための費用を密かに貯めることにした。脱北にかかる費用はおよそ1000万ウォン(約100万円)で、北朝鮮に暮らしていれば一生かかっても手に入らない額だ。先に脱北した家族がいる人は負担が少なくて済むが、そうでない人は借金をして、脱北成功後に韓国政府から支給される「定着支援金」から返す。僕には脱北し韓国に住む父がいるので、国境地帯までの旅費13万ウォン(約1万3000円)を貯めることにした。
そこでまず、山で冬眠しているカエルを捕まえて売ることで6万ウォン(約6000円)を貯めた。中国ではカエルのお腹の油が薬になるといって需要があったからだ。カエルは1匹350ウォン(約35円)で売れた。
残りの7万ウォン(約7000円)は、上司からもらったお金で賄った。職場には叔父からもらった自転車で通勤していたが、仕事の取引先の人に貸したところ紛失されてしまったため、上司が「仕事に必要なものだから」と自転車代として7万ウォンをくれたのだ。せっかく出してくれた自転車代を脱北に使ってしまい、上司には申し訳ないと思っている。
こうして脱北費用を集め終えたときには、一度目の脱北挑戦から5年の月日が経過していた。