脱北者が聞くと必ず涙する「讃美歌」とは…命懸けで逃げ込んだカンボジアの韓国大使館での礼拝

 23歳の時に2度目の脱北に踏み切ったYouTuberのキム・ヨセフさん。もし再び捕まれば命すら危うい中、先に脱北し韓国にいる父親を頼りに北朝鮮を後にした。韓国に渡るまでには中国、ベトナム、カンボジアの地を踏む必要がある。キムさんの決死の逃避行とは――。

※本稿は、キム・ヨセフ『僕は「脱北YouTuber」~北朝鮮から命がけで日本に来た男~』(光文社)の一部を再編集・加筆したものです。

第1回:「そろそろ始めよう」脱北に失敗した北朝鮮の18歳が受けた拷問とは…そして再び脱北を決意した
第3回:脱北YouTuberキムさんが「苦労知らずの日本人」と「まん延する朝鮮差別」に思うこと

「夢のよう」中国で父と再会

 2008年、僕は脱北費用13 万ウォン(約1万3000円)を元手にブローカーと5年ぶりに連絡を取り合い、2度目の脱北に臨んだ。失敗すれば銃殺まではないかもしれないが、一度目よりひどい目に遭うのはわかりきっていたので、そうなったらネズミ駆除剤で自害しようとズボンの中にしのばせていた。

 ブローカーが賄賂を渡して国境警備隊が全員撤収した場所から、ついに僕は国境の川を渡った。川を渡る際は下着姿になり、服はすべて頭の上にのせ、音を立てないようにゆっくり渡る。4月にもかかわらず、中朝国境の豆満江を流れる雪解け水は刺すような冷たさだったが、川幅は10m程度で深さが胸のあたりまでしかなく、すんなりと渡ることができた。川一本を隔てて広がる、夢のような光景を目前に捕まった一度目の雪辱を果たした喜びと達成感はひとしおだった。

 そこから中国人のブローカーと落ち合い、韓国にいる父に連絡をした。ブローカーの家で父の到着を待つ間もまだまだ安心できなかったが、中国を見ることをできずに捕まった前回よりはマシだと思った。万が一、このあと死んだとしても、前回のような悔いはない。

 強制送還の危険度は北朝鮮の国境から遠ざかるほど低くなるが、父と会うまで何があるかわからないので、ネズミ駆除剤はまだ捨てずにいた。そして父と12年ぶりに再会したとき、ネズミ駆除剤とともに、北朝鮮からはいてきたズボンを捨て、韓国人のふりをするために父が韓国で買ってきてくれた服と靴に着替えた。その後はどうなろうとも、運命にまかせることにした。

 中国で再会した父は、僕の記憶の中の父の姿とだいぶ違っていた。僕も23歳になっており、10歳くらいの頃の息子の姿しか覚えていない父にとっては不思議な感覚だっただろう。北朝鮮では党幹部や権力者層以外の一般人は痩せて顔色が悪い場合が多いが、そのときの父は血色がよく、北朝鮮の人には見えなかった。僕が北朝鮮で最後に見た父は、栄養失調で足が腫れあがり、杖がないと歩けないほどだったのに。

 僕の胸に去来したのは懐かしさとともに、7人家族が、たったの2人になってしまった寂しさだった。ここに母と姉たち、せめて生き別れた弟を連れてきたかった……。

「逮捕されるかも」眠れぬ夜を過ごす

 すぐにでも父と一緒に韓国に行きたかったが、2008年の当時は北京五輪がある関係で中国国内の移動に制限がかかっていたため、半年ほど父の遠い親戚の家に滞在して、機を待つことにした。そして10月ごろ、いよいよ出発する日が来た。捕まったら、親戚にも害が及ぶので、持参したのは服と旅費分のお金だけ。これで北朝鮮から持ち出したのは、思い出以外何もなくなった。

 ゴールは、中国を抜けベトナムを経由し、カンボジアの韓国大使館にたどり着くこと。ブローカーに1000万ウォン(約100万円)ほど払って中国の偽造旅券を持って飛行機で直接渡韓するプランや難民収容所があるタイを経由し亡命するルートもあったが、父の成功例により、実体験に則した情報があるルートを選んだ。

 まず僕は父とともに中国とベトナムの国境付近まで、バスと鉄道で移動した。瀋陽で韓国人が営んでいる民泊に2泊、そこから北京に移動して1泊。北京からは長距離夜行バスで2泊し、バスを乗り継いで安宿でさらに1泊しベトナム国境にたどり着いた。南下するごとに気温は上がり、出発時に着てきた服は道中で徐々に捨てた。最後は夏服になっていた。

 途中で捕まって送り返される脱北者もいるため、国境地帯に着くまでの約1週間はろくに眠れなかった。バスの中からサイレンが聞こえ、自分を捕まえに来たと思って窓をのぞくと救急車……ドッと疲労に襲われる。民宿で部屋のドアを叩かれると、警察が来たのではないかと戦々恐々とする。そんなことの繰り返しだった。

 バスだと検問が多いので、観光に来たふりをして、最後はタクシーで国境近くまで移動した。韓国のパスポートを持つ父と一緒に不法入国するわけにはいかないので、父とはハノイのホテルで落ち合うことにして、いったん、そこで別れた。

 中朝国境は川だが、ベトナムと中国の間には一部の河川を除きはっきりした境界がない。僕は山越えルートでベトナムを目指すことにした。国境近くのホテルに着くと、暗くなる前に国境にあたる山の地形を見に行き、山を越えるためのおおまかな方角を頭に入れた。事前の視察が不可欠だった。山のどこに国境があるのか不明なうえ、中国側からベトナムを目指す脱北者が多く、中国の国境警備隊がパトロールしているためだ。

 そして夜11時ごろ。僕はベトナムを目指して暗闇に飛び込んだ。食べ物や飲み物は持たず、灯りひとつない深夜の真っ暗な山道を、ひたすら2、3時間。視界がとれないが方角だけは間違えないよう集中し、物音がしようものなら、音の主が人か動物かを耳をすませて確認しながら歩いた。歩く姿が遠くから見えたらまずいので、なるべく音を立てないよう神経を張り巡らせ、少しずつ進んだ。

 途中で水に入ったり、足を踏み外して滑落したりもしたが、崖を落ちるよりも捕まるほうが断然怖かった。ベトナムはもちろん、中国の国境警備隊もいるかもしれない。見つかったら、万事休すだ。

 山を越え、山と山の間に流れる川を渡り、また山を越えた。山をひとつ越えるたび、中国から遠ざかり、少しは安心できる気がした。富士山のような形をした山を3つ越えた頃、空が白み始め、集落が見えてきた。だが、ベトナム側なのか、中国側なのかわからない。ベトナム側の集落だと思い込んで、中国の国境警備隊に捕まった人もいると聞いたので、確認するまでは安易に動けない。

 僕は近くに身を潜め、人が出てくるのを待った。そして夜が明け、民家から出てきた人たちの話し声に耳をすました。

 ……中国語じゃない!

 集落の人々は、こちらの様子をまったく気にしていなかった。バスターミナルまで歩いて移動し、ハノイ行きのバスに乗った。「バス」と言っても伝わらず、父がハノイのホテルの名前などを英語で書いてくれていたメモを見せ「ハノイ、ハノイ」と言うと通じたので、手持ちの人民元でバス代を払った。

 父には、韓国人が経営しているホテルがハノイの韓国大使館の近くにあるので、そこで助けを求めなさいと指示されていた。場所は、バスの運転手が教えてくれた。バスが走る3時間ほどの間、検問で警察が運転手の身分証を確認したときはヒヤッとしたが、何事もなく無事ホテルにたどり着くことができた。

 しかし韓国系ホテルとはいえホテルのフロントは皆ベトナム人で、ベトナム語か英語しか通じない。隣にあるカフェに入ってみても、どう注文していいのかわからない。韓国人のように見える人を探して声をかけてみたりして途方に暮れていると、僕の名前を呼ぶ、聞き慣れた声がした。

「父さん!」

 父の姿を見るとどっと安心感が押し寄せた。ここまで来たら、もう生き残れる。

長い逃避行の終わり

 僕は父とハノイの公園や市内を観光し、父が探した韓国系の民泊に3、4日ほど泊まった。生き残れるという安心感はあったが、韓国に行くにはまた国境をひとつ越えなければならない。僕らはすぐに、脱北者にとっての最終中継地となるカンボジアを目指し、ベトナム南部の都市ホーチミンへの旅路についた。ホーチミンからカンボジア国境地帯へ行き、メコン川を渡る計画だ。

 ハノイからホーチミンまでは、寝台列車で30時間ほどかかる。ホーチミンはハノイよりにぎやかだった。そしてベトナム人ブローカーの案内で、韓国人の教会が支援しているカンボジア行きのブローカーを紹介してもらい、ここでまた父と別れた。ベトナム人ブローカーは若い人で、彼とともにベトナムとカンボジア国境のメコン川に向かった。

 向こう岸に渡れる場所まで1時間以上かけて2、3㎞歩き、そこで彼が川に入って浮かべた大きなチューブに乗った。本来はワニがいるので渡るのは危険なのだが、それほど時間はかからず、無事に渡り終えることができた。

 渡った先で待っていたカンボジア人ブローカーのSUVに乗り、3〜4時間くらいかけて、国境の街からプノンペンの韓国大使館に向かった。掲げられた太極旗が目に入ると、緊張がほぐれた。ここに入ればもう捕まることもない。2月に北朝鮮の祖父母の家を出てから約8カ月。長い長い逃避行がようやく終わったのだ。

ようこそ、いらっしゃいました

「ようこそいらっしゃいました、おつかれさまでした」

 出迎えてくれた男性職員――僕にとってはじめて見る韓国人は、同じ民族なのに、まるで違う国の人間のようだった。

 その後、自己紹介のようなものを紙に書き、50、60人の脱北者を一時収容している2階建ての大きな屋敷に移動した。僕がいたときの収容所は30、40代がメインで、最高齢は50代だった。出国手続きが行われる3カ月ほどの間その施設にいたが、なぜそこまで時間が必要なのかわからなかった。

 施設には韓国人の宣教師がいて、毎朝礼拝をした。新しく脱北者が入るたび、讃美歌『放蕩息子のたとえ話』を歌う。故郷を出奔(しゅっぽん)し放蕩の限りを尽くした息子が、困窮して帰郷し父(神)の赦(ゆる)しを得るという内容だ。これを歌ったり聞いたりすると、大抵の脱北者はこれまでの命懸けの旅路を重ね合わせ、泣き出す。

 もともと平壌は植民地時代、「東洋のエルサレム」と呼ばれるほど教会が多かったが、金日成がそれをなくした。そのため韓国の宣教師から見ると北朝鮮は「神に捨てられた地」であり、脱北者は父(神)のもとに戻ってきた息子・娘であるという解釈になるのである。

キム・ヨセフ『僕は「脱北YouTuber」~北朝鮮から命がけで日本に来た男~』(光文社
この記事の著者
キムヨセフ

1985年、朝鮮民主主義人民共和国の北東部・咸鏡南道に生まれる。10歳のときに弟と路上生活を始め、18歳で一度目の脱北を試みるも失敗し、白頭山のふもとにある留置所に送られる。23歳で二度目の脱北をし、中国、ベトナム、カンボジアを経て24歳で韓国へ入国。28歳で日本に語学留学し、大学を卒業。現在は会社員のかたわら、YouTubeチャンネル『脱北者が語る北朝鮮』で北朝鮮情報を発信中。

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