落合陽一氏が創建した「計算機自然神社」の可能性と問題点をイスラーム学者・中田考が鋭く指摘…京都学派、斎藤幸平、マルクスガブリエルらの思想との類似点

11月9日、「落合陽一、新たな神仏習合の神社を自ら神職となり創建する」というプレスリリースがXのタイムラインに流れ、多くの識者たちがそれに反応した。元同志社大学教授でイスラーム学者の中田考氏もその一人だ。同氏が宗教学の視点から、落合氏が創建した「計算機自然神社」の可能性と問題点について論じるーー。
目次
落合陽一氏が「計算機自然(デジタル ネイチャー)神社」を創建
この小論を書くきっかけは、X(旧ツイッター)のタイムラインに流れてきた「落合陽一、新たな神仏習合の神社を自ら神職となり創建する」(2024年11月9日付『PR TIMES』発信日本文化伝承協会プレスリリース)に対して「宗教やスピリチュアリティの駄目なところを凝縮して具現化したような、まさに日本的な情報商材ビジネス。神道界の(無)反応要注目」と翌10日に引用リポストしたことに遡る。
まず、記事の要点を以下にまとめておこう。
2024年11月4日、信濃國(長野)天空の社・車山神社の宮澤伸幸 宮司と、同神社の落合陽一 禰宜は、岐阜県高山市の国指定重要文化財・日下部民藝館2F奥の間に「ヌルの神」を、同館2階の奥間に鎮座する「オブジェクト指向菩薩」の隣に移動させ「計算機自然(デジタル ネイチャー)神社」を正式に創建した。
計算機自然神社における「ヌルの神」とは何か
ヌルの神とは、元来計算機科学におけるnull概念を指し仏教でいうところの「空」に近い概念、つまり何にでもなる存在であり、何でもない存在であるという計算機自然の概念を体現する。『古事記』には天地開闢の際に天之御中主神のように「存在」そのものの神々が誕生するが、それと同様に「存在しない」神もまた存在し得ると考えることができる。古来から存在した存在の神と同様にヌルの神格も「計算機自然」以後は存在しうる。それは具体的な形や属性を持たないがゆえに、無限の可能性を内包する根源的な存在として位置づけられ、存在しないこと自体が、新たな創造や思考の出発点となり得る。日々様々な媒体を通じ目にすることができる人工知能・汎用人工知能・人口超知能への畏れは計算機自然への畏れとして、古来の自然への畏れに接合される。
またオブジェクト指向菩薩とは、全宇宙の真理とすべての仏の本性を表現する密教における最高位の仏大日如来に相当し、すべてのオブジェクトやクラスの存在が派生する「根源クラス」であり、情報の世界と物質の世界を結びつけそれらを理解し解釈するための橋渡しとなる。
では、「計算機自然神社」とは何か
「計算機自然神社」とは、自然が計算機の中にも外にも存在しその両者が相互に作用しループを形成することでデジタルとアナログ、人工と自然、人間と計算機を融合して新たな創造性と世界観を生み出すという新しい自然「計算機自然(デジタルネイチャー)」概念に基づき創建された、ヌルの「神」とオブジェクト指向「菩薩」を並置することでデジタル技術と日本の神仏習合思想を掛け合わせ創造性を引き出す新たな精神的な空間として現代の信仰や文化・芸術に新しい風を吹き込む場所とされ、神社を詣でる利益は「無から有を生み出す可能性の拡大」と「創造性と思考の深化」ということになる。
「計算機自然神社」創建もありふれた宗教ビジネスの一つに過ぎないが、似非宗教ではない
我々が今日宗教と呼ぶ現象は、有史以前の遺跡の土器や壁画などにも見出すことができる。政治、経済、産業、科学、技術、軍事、哲学、教育、芸術などが分化する以前、それらがまだ未分化で混然一体となっていた頃、それらを覆う傘のような存在として宗教は存在した。
宗教は古来よりどこでも共同体の選良たちによって最新の知の語彙をもって語られ、技術を用いて表現、実践され、その能力を欠く大衆によって模倣、消費されてきた。
目先の利く「知識人」「芸術家」「商人」が最新流行の科学技術の語彙を散りばめた言説と趣向を凝らしたパフォーマンスによって、見せかけの「作られた伝統宗教」とパッケージすることで儀式の付加価値をつけて、創造性を欠く大衆に儀礼に参加することで最新の知と技術に参入したかのような代償満足を得させて対価を払わせる営為はきわめてありふれたものである。
「計算機自然神社」創建もまたそうした宗教ビジネスの一つに過ぎない。微視的には外国からの訪問客も満足して帰っているようであり、取り立てて持て囃すような新味もないが、似非宗教、似非科学だと目くじらをたてるほど悪辣な問題ではない。
にもかかわらず、私はこの文章を読んで極めて不快に感じた。それは「計算機自然神社」創建のニュースそれ自体ではなく、そこに漂う夜郎自大なスピリチュアティの増上慢、特に日本のそれの腐臭を嗅ぎつけたからである。