天を指した平和への想い、指先に込められた祈り…ダニーボーイ、其は美しい。羽生結弦『Echoes of Life』広島公演

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そう、弥勒菩薩半跏思惟像のそれだった
氷上の羽生結弦は白き花だった。
瓦礫に咲く白い花――舞台装置の荒涼とした大地の演出だけでなく、私には羽生結弦が瓦礫、あの原子爆弾の投下という愚かな人の行為によって消えた数十万の命のひとつひとつに想いを寄せ、祈り、舞う白き花に見えた。
そして『ダニーボーイ』の指先に込められた祈り――それは命の潰えるまで折り続けた鶴を天高く掲げる少女の指先そのものであった。
そう、指先――ダニーボーイを舞う羽生結弦の指の先もまた、ヒロシマの祈りと共に進化していた。
技術的な面はもちろんだが、なんだろう、羽生結弦というアーティストの感受性が次元の先に向かおうとしている。より多くの、もっと多くの人々を、社会を、世界を想い、祈る大きな氷上芸術へと進化しているように感じた。
天高く指す――それは長崎の平和祈念像のように真っ直ぐに天を指していた。絡めとるように、しなやかに形作る指先もまた弥勒菩薩のよう――そう、弥勒菩薩半跏思惟像(広隆寺)のそれだった。あるいは木造地蔵菩薩坐像(六波羅蜜寺)のように優しく包むように折りたたまれもした。神仏に喩えるしかないほどに崇高であった。
羽生結弦の進化は止まらない
私は舞踏芸術でまず指先を観る。
以前書いたが日本舞踊の分家家元であった私の母は「踊りは指先から始まる」と、とくに指をおろそかにすることを嫌った。それがすべてではないが、それが正しくなければ、優れてなければ良質な芸術たり得ない。もちろん羽生結弦のそれが遥か先のレベルにあることは当然だが、そのレベルがまた上がっている。羽生結弦の進化は止まらない、それは指先にもあった。
弥勒菩薩半跏思惟像の指の形(印相)は思惟(しゆい)手と呼ぶ。思惟とは遠く釈迦がそれこそ羽生結弦の問いかけにある「いのちとは」「わたしとは」という世の根本=真理について考え続けたことを指す。その象徴が指先の思惟手である。
弥勒は56億7千万年後に衆生を救済するため降臨するとされる。馬鹿な話と思う向きもあるだろうが、こうした菩薩を思うほどに古から人々は理不尽な苦しみ、それこそ国を焼かれたり、異民族に皆殺しにされたりが常だった。
そうした時代を指す「末法」とは釈迦の死後に正しく仏法が伝わらず世が乱れ、やがて人の世が滅びることを表す思想だが、これも仏教徒が他宗教の民族の襲撃を受けて皆殺しにされて滅んだ(古代インドなど)ことから生まれた思想とされる。
人はどこまでも理不尽で残虐になれるということを遠く古代から教えてくれるが、これは現代、原爆投下の愚行もそうだ。広島と長崎で20万人以上の一般市民を殺す爆弾を市街地に落とす、人はそういうことができるという恐怖自体が原爆の恐怖を超えている。
ちなみに弥勒が降臨するまで人々のため地上にあるのが地蔵である。木造地蔵菩薩坐像の指の形は与願印。衆生の願いを聞き届け、願いの叶うことを祈り続けるためにある。
優れた舞踏とは神仏と一体となる
優れた舞踏とは舞踏家の意図したそれを超えた身体表現に至る。私には羽生結弦の『ダニーボーイ』という祈りの氷上芸術がヒロシマという「場所の力」によってある種、菩薩行の域に達したように思えてならない。