消費税ゼロ語った高市氏、舌の根も乾かぬうちに「巨額バラマキ政策」…痛みから逃げる自民政治「昔は筋があったのに」

2025年5月13日、高市早苗総理は虎ノ門ニュースに出演し、「賃上げのメリットを受けられない方々にも広くメリットがあるのは、食料品の消費税率ゼロだと確信していた。かなりがっかりしている」と主張し、17日には「(消費税減税に否定的な見解を示した石破茂首相の国会答弁を受け)私たちの敗北かなと思っている」(札幌での講演)と指摘していた。にもかかわらず、総裁選直前の9月19日には「消費減税は時間がかかると言われ、その時はホンマかなと思っていたが、よくよく調べると、レジのシステム改修などに1年くらいはかかる。物価高対策としては即応性がないと思った」などと急にトーンを落とした。そして、いざ総理になれば巨額のバラマキだ。自民党の政治家は総理になると減税できなくなるのか。減税インフルエンサーで『図解「減税のきほん」新しい日本のスタンダード』(ブックフォース)の共著者である、オオサワ・キヌヨ氏は「いまの政治家は痛みから逃げている」と批判する。キヌヨ氏が歴史を振り返っていく――。
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「削れないなら、増税か借金で賄えばいい」
先日、高市早苗首相がX(旧Twitter)にこう投稿した。
「一部ネットニュースで『高校生扶養控除の縮減が決定した』かのように報じられているそうです。(中略)児童手当の拡充などを進めつつ、こども1人あたり2万円給付にも取り組んでいます。他方、高校生扶養控除は与党税調で議論中ですが、私が縮減を指示した事実はありません。」
だが、国民が違和感を覚えているのはそこではない。高市政権は今年に入り「減税」を掲げていたにもかかわらず、総理になると手のひらを返したように“バラマキ連発”へと姿勢を変え、さらに扶養控除の縮小・防衛増税といった増税路線へ踏み込んでいる。「減税する」と言っていたのに、いつの間にか「子ども2万円給付」、「企業への補助金」、そして国の重点支援地方交付金を元にした地方自治体の「クーポン」「低所得向けポイント」と、巨額のバラマキを始めた。その一方で、国会議員の歳費は5万円増加するという案まで出した。(歳費増加については今国会は見送り)。国民が怒るのは当然である。
では、なぜ高市政権はもともと減税を掲げながら減税を避け、安易なバラマキと増税に逃げるのか。その最大の理由は、歳出削減に関する“国家としての大目標”が存在しないからだ。目標がないから、どの省庁も予算を削らない。痛みを伴う改革は進まない。
結局、「削れないなら、増税か借金で賄えばいい」という最悪の構図に陥る。
「どこを削るか」から逃げず、本気で無駄をそぎ落とした時代
政治家は個別の政策で減税を議論すると、官僚や族議員に抵抗され腰折れする。「年金を削減しろ」と言えば厚労族の反発にあう。「厚労省として5%削減しろ。何を削減するかは自分たちで決めろ」というと官僚と族議員同士が潰し合う。
しかし日本にはかつて、「どこを削るか」から逃げず、本気で無駄をそぎ落とした時代があった。高度成長が終わり、財政危機が迫りつつあった1970〜80年代前半である。その象徴こそ、ゼロ・シーリング、マイナス・シーリング、そして土光臨調だ。
1970年代初頭、ニクソン・ショックと第一次石油危機が日本経済を直撃し、それまでの高成長は終わりを迎えた。税収の自然増は消え、特に法人税収の伸びは20%超から6%台へ急落した。ところが、歳出は逆に増えていく。
1972年は「福祉元年」と呼ばれ、老人医療費の無料化や年金の拡充など社会保障制度を一気に広げたからだ。同時に「日本列島改造論」による公共事業も急拡大。その結果、1973年度予算は前年度から24.6%もの大幅増となる。今のバラマキ政治の出発点・元凶と言える時代だ。
経済成長などを元にせず、選挙対策のために歳出が決まる。こうして税収が伸びず、歳出だけが膨張する。そこで政府はついに1975年度から、一般会計の赤字を埋めるための“特例公債(赤字国債)”に本格的に依存し始めた。ここから日本の財政は「成長を原資とした財政」から、「借金を原資とした財政」へと体質が変わっていく。
ゼロ・シーリング「一円たりとも増やすな」
こうした財政悪化を受け、大蔵省(当時)は「これ以上、歳出膨張は許されない」と危機感を強める。しかし、各省庁は当然ながら「うちは必要だ」と予算を積み上げる。政治家も“地元向けの予算”を確保したい。積み上げ方式では歯止めが効かなかった。そこで導入されたのが「シーリング(概算要求の上限設定)」である。簡単に言えば、「各省庁が予算を“盛ってくる”前に、あらかじめ“ここまでしか要求してはいけない”と天井を決める仕組み」である。最初はゆるい上限だったが、効果は限定的。
そこで、財政再建が本格化する1980年代初頭に、より強力な二つの方式が登場する。
1982年度に導入されたのがゼロ・シーリングだ。内容は極めてシンプルで厳しい。「各省庁の一般歳出は、前年度より一円も増やしてはいけない」。もし新しい政策を打ちたいなら、自分の所管のどこかを削って捻出しろ、ということになる。
ここで特徴的なのは、政府が「どこを削れ」とは言わない点だ。政治が直接指示すると、族議員や業界が反発する。
そこで、「増加ゼロという枠だけ決める」。
「必ず全年より減らせ」
何を守り、何を諦めるかは各省自身で判断しろ」という方式を取った。結果、各省庁は内部で激しい取捨選択を迫られた。1982年度予算では一般歳出の伸びが抑えられ、公債発行額も減少。一定の成果を上げた。
しかし財政はなお厳しく、税収の低迷も続く。そこで1983年度には、さらに踏み込んだマイナス・シーリングが導入された。これは、「予算要求は、前年より5%少なくしなければならない」というルール。家計でいえば、「来年の生活費は今年より5%削れ。どこを削るかは自分で決めてください」と言われるようなものだ。ゼロ・シーリングよりはるかに厳しいこの仕組みにより、歳出は実質的に“前年割れ”が強制された。
ゼロ・シーリングやマイナス・シーリングの背景には、もう一つの大きな存在がある。
1981年に発足した第二次臨時行政調査会、通称土光臨調だ。会長の土光敏夫は、経団連会長を務めながらも粗食と質素倹約を貫き、「メザシの土光さん」と国民的な人気を集めた人物。その清貧イメージは、「行革」「財政再建」という硬いテーマに国民の関心を引きつける力を持っていた。
土光臨調が進めた改革は、行政スリム化、特別会計の見直し、公務員人件費の抑制、国鉄・電電公社・専売公社の改革、「増税なき財政再建」の旗印とし、大胆そのものだった。
当時の政治にはまだ“筋”があった
当時、テレビ討論や報道が土光を取り上げ、“行革待望論”が世論として広がった。その後の国鉄分割民営化や通信・専売の改革は、この臨調の提言が土台になっている。ゼロ・シーリング、マイナス・シーリングという痛みを伴う予算抑制が実施できたのも、土光臨調が醸成した「無駄削減の空気」と国民の支持があったからこそだ。
だが、この「増税なき財政再建」も中途半端に終わった。その理由は、改革の“痛み”が自民党の限界に達したためだ。行政スリム化や三公社改革で一定の成果を上げた一方、本丸である社会保障費の増加には踏み込めず問題は放置され、やがて消費税の誕生に繋がった。また、臨調はあくまで「諮問機関」であり、強制力を持たない。中曽根内閣が主要改革を終えると政治的求心力も低下し、世論の“行革熱”も次第に後退したことで、役割を終えた形となった。バラマキ政治の元凶・自民党が改革側にいる限り今後も同じ結末になるだろう。
それでも、当時の政治にはまだ“筋”があった。「どこを削るか」を避けず、正面から向き合っていたということだ。
いまの政治は「痛み」から逃げ続けている
では、いまの政治はどうか。一度きりの2万円給付、ポイント、クーポンの乱発、業界向け補助金のバラマキ、その陰で議員の歳費は5万円増額。これらを見て、国民が「まず自分たちの無駄を削れ」と怒るのは当然だ。今の政治は、本丸の歳出改革には踏み込まず、“人気取りの給付”でごまかしているように見える。
ゼロ・シーリング、マイナス・シーリング、土光臨調の歴史が教えてくれるのは、歳出改革から逃げる政治には、未来がないという単純な事実である。国民が向けるべき怒りは、「バラマキで人気を買おうとする政治」であり、求めるべきは、「どこを削るか、何を残すかを正面から説明する政治」である。その覚悟がないまま「給付」「ポイント」「補助金」だけが続く限り、日本の財政は決して健全化しない。今こそ、かつて本気で無駄を削った時代から学ぶべきときである。かつては社会保障に手をつけず中途半端で終わった歳出削減。財政も経済も世界環境も以前より悪化している。社会保障を含めたマイナス・シーリングの再挑戦は今しかない。