第七話「不思議な空間」連載小説「奪われるースパイ天国・日本の敗戦ー」
スパイ防止法がないこの“天国”・日本で、知らない間に国が「奪われる」──。
表向きの歴史やニュースの裏側に潜む、冷酷な国際諜報戦と、個人の運命が国家間の巨大な陰謀に巻き込まれていく壮大な安全保障サスペンス小説、ここに爆誕。
舞台は、女性初の内閣総理大臣・高地きみえが熱狂的な支持を背景に「強い日本」を目指す日本。彼女は長年の懸案である日本人拉致被害者の奪還を決意し、極秘裏に北朝鮮の金正恩総書記との会談に臨む。しかし、その外交交渉の裏側では、すでに北朝鮮の体制に「影」が差し込み、巨大な隣国・中国の思惑が絡み合っていた。
第七話「不思議な空間」
「ご検討いただきありがとうございます」。3日後の返事にキムは深く頭を下げた。「ただ条件が1つあります」。山田浩一は真剣な表情で、真っ直ぐキムを見つめる。「成果報酬はなしで良いです。その代わり、娘が大人になるまでの雇用を保証してください」。キムの目が鋭く光った。「ほう・・・では、お約束しましょう。あなたが安心して働けるように」。
その夜、帰宅すると、明里ははじけるような笑顔で浩一を出迎えた。「お父さんのやりたいことがついにできるんだね! 明里も留学できるかもしれないなんて、マジ最高!」。仏壇の妻の写真が微笑んでいるように見える。「お前のおかげだよ」。浩一は心の中で呟いた。「こんなに素晴らしいチャンスをくれてありがとうな」。平凡な生活では感じなかった、熱いモノが久しぶりに流れていることを感じた。
GTL社への初出勤の朝、窓ガラスに反射する自分を見つめる。「お父さん? なーに、やってんの!」。明里が笑いながら腹にパンチした。「もう、遅刻するよ!」。娘が以前にも増して明るくなったように感じる。玄関でお気に入りの革靴を履きながら浩一は言った。「今日から新しい『船』に乗る」。明里は「航海記録、沢山拝ませてね!」と背中を押した。
新しい職場は東京・新橋のビルに入っていた。入口のセキュリティゲートは、虹彩スキャンと指紋認証を必要とした。すでに登録済みのため、もたつくことなく奥に向かう。エレベーターを降りた先でキムが待っていた。彼は星空図の印刷されたカードを浩一に渡した。「あなた専用のセキュリティカードです。肌身離さず持ち歩いてください。今日から、あなたは特別な存在となります」。キムが案内した研究所の一室は地下にあり、さらに厳重なセキュリティが施されていた。監視カメラもあらゆる角度から捉えられるよう設置してある。
「ここがあなたのデスクになります。何か必要なものがあれば、いつでも遠慮なくスタッフに言ってください」。キムは淡々と言い残すと、雑談に応じることなく消えていった。「今日から、ここが俺の新天地か・・・」。浩一は娘の笑顔を思い浮かべて嬉しくなった。自分がやりたかった電磁波の応用を研究するポジションも悪くない。何より、年収はこれまでの6倍近くに達する。明里の留学資金も老後の生活も心配する必要はなくなった。
研究所ではコーヒーはもちろん、食事も無料で提供された。たまに外食がしたいと申し出ると、「私も食べたいモノがあるので」と一緒についてくるスタッフが何でも払ってくれる。もう10年近く住む賃貸マンションの家賃13万円もGTL社が補助してくれた。自宅と職場の行き帰りは社用車の送迎付きだ。「なんか、大リーガーにでもなった気分だな。日本の企業とは大違いだ」。浩一は、申し分ない職場にたどり着けた気がした。
ただ、1つだけ気になることがあった。初日、浩一はスマホを没収された。「機密保持のためです。社内ネットワークのみ使用を」。キムの声は穏やかだったが、目は笑っていなかった。日本の会社でも仕事中のスマホ利用を禁止しているところは多い。省庁でも外務省などは局長級以上の部屋に持ち込むことはNGとされ、入室の際はドア前に設置された透明のボックスに入れておかなければならない。だが、休憩時間も含めて一切の利用が不可というのは珍しいな、と感じた。
さらに、社内電話は外部発信ができず、メールも監視されているようだった。送信履歴が勝手に消える。最初のうちは外出する際についてくるスタッフを「この人も外に出たかったんだな」と思っていた。だが、次第に自分を「監視」していることに気づいた。どこに浩一が行き、誰と話し、何をしていたか。そのスタッフはそれを報告することが任務だったのだ。
研究所にいる間は娘や親に連絡することもできず、たまに友人と食事をする約束があっても許可がなかなか下りない。やっと承認されたかと思ったら、いつものスタッフが「私も『護衛』について行きます」という。礼儀正しい男ではあったが、浩一が旧友との食事を終えてコンビニの前で立ち止まると、耳元で囁いた。「無駄な寄り道は避けてください。何が起きるかわかりませんから」。浩一に束縛の不安が襲う。
ただ、それ以外に不満はなかった。初めての給料振り込みを確認した夜、明里は飛び跳ねて喜んだ。「お父さん、すごい金額だね。ありがとう! これで友達みたいに新しい服が買えるよ」。今まで我慢させてきてしまったことへの罪悪感が浩一にのしかかる。もちろん、仕事は魅力的だ。高出力電磁波のメカニズムを探求し、ひたすらチームでいろいろな角度から応用を試みた。浩一はまもなくチームを牽引するリーダーに就き、実験に没頭した。